いちじく桑の木

 

 

 取税人の頭ザアカイは、頭としての権力も地位も財産も充分ありましたが、これら環境的要因では心が依然満たされず、環境によらない普遍の愛と全き救いに対する飢え渇きが強くありました。そこでエリコに来られた愛の救い主イエスさまを一目見ようと群衆に紛れ込みましたが、背が低かったので群衆が壁となり、どんなに背伸びしても人々の背中しか見ることが出来ません。

 

嫌われ者のザアカイを前方に出してくれる親切な人もありません。この事実は象徴的に元来、ザアカイのように汚れた罪人が清い神さまに出会うとは、罪の呪いや不信仰が隔ての壁となり、どんなに背伸びをしてみても見ることさ不可能であることを暗示しています。

 

しかし、ここに希望の福音があります。誰であれ、真理を求める熱心さえあれば、主との出会いの奇蹟を可能にする一つの救いも準備されていました。ザアカイの登ったいちじく桑の木です。

 

 このは幹が短く枝は四方に伸びているため、子供でもやすく登れるであり、小柄なザアカイでも登ることが出来まし。ごくありふれた木ですが、これにより、そこからイエスさまを見つめることができ、主との出会いを可能にし、救いの道が開かれたのです。

 

 私たちにもこののような主なる神さとの出会いを可能にする登りやすく、ありふれただけれど確かに不可能を可能にマイナスをプラスにする大切があるのです。それがイエスさまのつけられ荒削りの十字架のです。十字架の言葉は減びに至るものには愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力であり、登りやすいいちじく桑ののように、十字架による救いもたやすくすべての人のために準備されており、子供にも理解出来る簡単な教理であって、ただじるだけで、罪赦され、救われるのです。人間の努力や苦行善行によらず、だ恵みのゆえに信仰だけで救われてたやすく神さまの子供になれるのです。

 

今、声に出してこう告白し、これを心で本当に信じてください。その時あなたはただで救いを受け取れます。

 

 

「天の父なる神さま、感謝いたします。今、信仰を持って御前に進み行きます。私は今まで私を造られ命を下さった創造主の神さまから離れて罪人として生きてきました。私は罪を悔い改めます。罪なき神さまの一人子イエス・キリストが私の罪の身代わりとなって十字架にかかり、血潮を流して死んで、三日目に死人の中からよみがえられたことを私は信じます。イエスさまの貴い血潮で私を洗い清め、復活の命で満たしてください。払は救い主イエス・キリストを心の王座に受け入れます。助け主、聖霊さまを私の心に与えてくださり、今から永遠まで主とに生きていけますようにお導きください。すべての罪から私を守り、御言葉の力で成長を与えてください。イエスの血潮により契約が結ばれた今、神さまは永遠にの父となり、は永遠に神さまの子供とされたことを宣言いたします。私は救われました。は勝利しました。感謝します。主イエス・キリストの御名によって、心からお祈りいたします。アーメン」

 

 

ある小学生がロッキーと名付けたドーベルマン犬を飼っていました。しかし、自分のことを馬鹿にしているように思えて、この犬があまり好きではありません。ある日のこと、近所の大きい川にロッキーと一緒遊びにいった時、川の石を渡って中州まで行こうとして、コケって川に転落、そのまま深みに流されて溺れました。釣り人たちは上流で気付かず、道路からも遠く、川の水は冷た、段々力が抜けて死を覚悟し始めた頃目の前にロッキーがいて、自分のシャツを噛んで川の岸に運んでくれました。リードを階段の手すりに結んでいたロッキーが助けに来るとは予想外。

どうやってロッキーは来れたんだろうい、水を吐いて落ち着いてからロッキーを見るとリードが噛み切られ首から余程暴れたように出血していて、こんなに必死になって助けてくれたのかと思うと、小学生ながら感動し号泣しました。

 

それ以来この小学生にとってロッキーは大好きなヒーローとなり、もしロッキーに何かあったら次は自分が助けてやりたいと決意しました。ロッキーの首輪付近の血だらけで暴れた痕跡の傷跡、見るに美しくない傷ついた姿、しかし、その理由を知った時、献身的な犠牲愛に感動します。

 

イエスさまの十字架の血にまみれた姿も、お世辞にも美しくはない過酷な厳しく裁かれた姿、全身血だらけで人が顔をそむけるほど見下された姿、しかしその真意を知る私たちはイエスさまの献身的な犠牲愛に感動します。今はこの愛に応えてイエスさまのお役に立ちたい。