霊のいやし

 

 聖書は霊的病である霊のバイ菌サタンとの戦いについて教えています。体がバイ菌と戦うのが当然であるように、御体なる教会の戦うべき敵がサタンです。動物界に天敵があるように、雲の世界に住む人間の天敵は人間ではなく背後のサタンです。

 

「兄弟たちは小羊(イエス)のと、自分たちのあかしのことばのゆえに彼(サタン)に打ち勝った。彼らは死に至るまでも命を惜しまなかった。」(黙示録1211

 

 天敵サタンに対する勝利の武器は、イエスの血潮と個人的に救いの証しが立つような、御言葉による新生の聖霊体験、そして忠実な信仰です。信仰の確信なく戦うならば、使徒の働き一九一六節にある、実験的に悪霊を追放しようとしたスケワの七人息子たちのように、かえって打ち負かされてしまいます。悪霊も必死です。実験レベルで出ていくものではありません。自分たちの王国の権威と往む家が、かかっているからです。

人間の場合でも、たとえ不法占拠した家であってもすぐには立ち退かないように、本気で戦う必要があります。常に御言葉と聖霊さまに満ちた清い状態で、信仰を持って戦うのが霊の戦いです。

 

 そしてイエスの血潮をたたえることがあなたの力です。サタンはもともと天国の天使たちのうち三分の一の軍勢を従える天使長ルシファーであり、主のみもとにいつもいながら、神さまに讃美を捧げる聖歌隊長の使命が与えられていました。天国では他に天使長ミカエルもいて、広い天国内の洽安維持の目的で巡回する警備員のような使命が与えられ、その下にも天使たちの三分の一の軍勢が置かれていました。後にルシファーが堕落してサタンになった時から「神の賜物と召命とは変わることがない。」(ローマ1129

 

 主の御前、ミカエルは警備から実際に戦う天使長となって応戦し、空中で今もサタンに対抗する霊的戦いをくりひろげています。また、天使長ガブリエルもいます。彼はもともと広い天国内で天使たちの間を行き巡って神さまからのメッセージを忠実に伝言する使命があり、ガブリエルの下にも天使たちのうち三分の一の軍勢が置かれていました。後に地球と人間が造られた時からガブリエルは地球にやって来ては、神のメッセージを人々に伝える使命を果たし、今もサタンの妨げに応戦しながら伝言しています。ダニエル書十章二節にはこれらミカエルとガブリエル以外他には誰もいないと書かれています。

 

 これは想像ですが、ルシファーの堕落ぶりはこのような次第だったのでしょう。ルシファーがいつものように讃美しながら外を見ていると、ミカエルは天内警備のために神の御元から離れて巡回に出発して飛び立ち、ガブリエルもメッセージ伝言のために神の御元を離れて出発して飛び立ってしまうため、ただ一人残された天使長ルシファーは心の中で高ぶり始め、大きな勘違いをしました。

 

は天使たちの中でも一番えらいのだ。ミカエルは警備員で外勤の外回り。ガブリエルも郵便配達員で外勤の外回り。しかし、この私はいつも一番神の近くで内勤務、あまり動かず美しく輝きながら讃美だけしている。私は暁の子、輝く明けの明星だ。私の天国の地位はすでに確立されており、私は天使長の中の天使長。万軍天使たちのトップだ。今からは天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、山にすわろう。頂きに上ろう。いと高き方のようになろう! 私は天国のVIPだ」

 

 こうして、使と賜物の違いも全くわからずに大きく勘違いしたルシファーは高慢の罪から破滅に陥り、汚れたサタンとなって清い天国から追放され、地上に投げ落とされたのです。このときサタンは竜のしっぽで巻いて道連れに自分の配下にいた天国の天使たちの三分の一を引き連れて地上に落ちてきました(黙示録124)。

 

 その後、サタンはエデンの園でアダムを手に入れ、合法的に人間と地球を我が物として今や地球の中心の地下の国よみに本営を設けて、そこから手下の堕落天使たちを悪霊たちにして地上に送りこみ、人々に悪を助長して、神さまに逆らわせているのです。

 

しかし、天使たちの数の上でも三分の二対、三分の一すなわち二対一、神さまの軍隊の圧倒的勝利の軍配はすでに上がっています。私たちが今、地上で信仰をもって祈る時、この戦いに参戦でき、天上の神の軍隊はさらに敵軍を退けて前進できす。

 

 悪霊が人に入る接点は罪、恐れ、心の傷、憎しみ、家系に働く呪いなどです。これらのいやしの祈りも同時に必要です。それはハエの好んで止まる汚い所をなくすことです。クリスチャンの霊は神殿として聖霊さまが住んでおられますが、心と肉体の領域は未だ戦場です。押さえつけられて支配されないように戦わなければなりません。

 

神さまの御使いが正義の軍隊であることに対抗して、サタンの使い悪霊たちも悪を肋長する軍隊のような組織を持っています。人が救われるとちょうど、かしらの一番強い千人隊長がその人から追放され組織崩壊状態となり、もはやサタンに完全支配されなくなりますが、代わりに聖霊さまに満たされていないと雑兵のような古きの七つの悪が再び帰ってきて住みつこうと罪に誘します。

 

 私は多くの人々が悪霊から解放されるのを見ましたが、長年入っていた悪霊は根が深く、出るのにも時問がかかりました。教会につながらない限りすべて追放出来なかっ例もありましたが、本人が強い意志で解放を願って離れない人は、悪霊が出ていきました。その時しゃべった悪霊の言葉で印象的なものをあげます。

 

 ある街での集会中、讃美による主の臨在の中で、占いの霊に憑かれた女性が床に倒されて、しみのたうちながら言いました。

「おれを追い出すことの出来た牧師はこの街には誰もいなかった。おれはこの女に十二年往んでいるのだ」

 

「おれがこの女から出たらこいつはイエス・キリストのために働くから出ない」

 

「絶対、舌だけは、はなさないぞ」

 

「おれはレギオンだ」

 

「あと二分の一残ってる。あと三分の一、あと四分の一、弱くなってきた、追い出されるぞ、助けてくれ、仲間を呼んでくれー」

 

また、ある家系に働く偶像の霊に苦しむ男性は言いました。

「異言、異なる言葉、意味が分からない。やめろ、やめてくれ、聞きたくない」

 

また、ある宗教と淫乱の霊に憑かれた男性はこう言いました。

「泉――。このやろう」

 

「今日は礼拝のない日だから、おれたちには好都合だ」

 

「おれの名前を知りたいのか、教えないよ」

 

「おれはこいつとあの女を姦淫に落とす計画を持っていたのになぜじゃまをしたか」

 

「おれの名前は家系の霊だ」

 

「いやだ、おれは出ていかない。こいつがおれを願っているから出ないんだ。こいつが悔い改めないからおれが出るはず無いじゃないか、そうだろう?」

 

「悪魔も疲れる」

 

悪霊はこんなものですが一番の解放は徹底した罪の悔い改めです。すべての罪を□で告白してからイエスの血潮で悪魔を縛り付けて命じましょう(マタイ1229

 

「イエス・キリストの御名によって命じる、出ていけ。」(使徒1618

 

ただし、偽りの父、悪魔にはしゃべらせない方がもっといいです(マルコ134)。

 

本来、悪魔がしゃべることが許されるのは、名前を告白する時だけです。イエスさまも悪霊どもの名前を呼んで追放しているからです。

「おまえの名は何か」(マルコ59)。

 

 具体的に人にとりつき苦しめている悪霊の正体を明らかにしたうえで、名前を呼んで命じることが効果的な悪霊追放になります(マルコ58833925マタイ410)。

 

 詩篇九七篇一〇節には、「主を愛する者たちよ。悪を憎め」とあります。悪を単に嫌うというレベルではなく、むしろもっと強く積極的に敵として、心から敵意をもって対抗せよということです。小さな罪もやがては人を不幸にし、滅ぼし尽くす敵なる黄泉の勢力と知り、妥協せず、義をもって立ち向かうことです。

 

 献金を盗む罪を犯し続け、後にはイエスさまを裏切る最大の罪にまで落ち込んだイス力リオテ・ユダの場合、サタンは。ユダに入る時、突然ではなく二段階スライド方式で徐々に入りました。一度目はその心にイエスさまを銀貨三十枚で裏切って、祭司長たちに売ろうとする「思い」を入れていたとあります(ヨハネ132)。

 

 ユダにとってはこの裏切りの「思い」がなぜか面白く思えて甘く捨てられません。それでこのサタンの「思い」を日々愛して反すうするユダに対する全知全能の神イエスの与えられた悔い改めの機会は最後の晩餐の時です。「パン切れを浸して与えるもの」が私を裏切ると、警告の伴った預言をされ、パン切れをユダに与えたその時、ユダが自分の自由意志でパン切れを受け取ると二度目、完全にサタンが彼に入りました(ヨハネ1327)。

 

 ユダはサタンに支配され、自らをコントロールできずに裏切り計画実行のため、すぐに外に出ていきました。ユダにとってその時は霊的にも実際的にもすでに夜でした。人の罪は内にすくう癌細胞のように成長するものですが、始めの悪い「思い」の段階ですぐに悔い改めて告白し断ち切るならば、後はサタンに完全に支配されてしまうことは絶対ありません。

 

人類最初の殺人者カインの場合、始めは主に受け入れられた弟アベルをねたむ心から罪の苦い根は張りめぐらされました。その時も、このようなカインでさえ愛の主は悔い改めの機会を与えられ御言葉を与えられました。

 

「そこで、主は、カインに仰せられた。『なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。』」(創世記467

 

しかしカインはかたくなに心の戸□で待ちぶせて恋い慕う罪と、その背後のサタンを内側深く受け入れて、結婚し一つとなって罪を身ごもったあげく、弟アべルヘの殺人という悲劇を出産したのです。

 

ヨハネの第一の手紙三章十二節ではこのようなカインは悪いものから出たサタンの子であるといいます。

「エルサレムよ。救われるために、心を洗って悪を除け。いつまで、あなたの中には邪念が宿っているのか。」(エレミヤ414

 

いつも、イエスの血潮で心洗われ、サタンの働きかける接点なる邪念を汚れた敵として、初期段階から聖絶してすべての思いから締め出す習慣をつければ、私たちはたやすくサタンに打ち勝つことができます。

 

 サマリヤの町で執事ピリポの宣教により汚れた霊は人々から大声で叫んで出て行き、いやしのリバイバルが起きました(使徒87)。悪霊が入る時は静かにこっそりと、泥棒のように蛇のように入り、信仰も希望も愛も喜びも祈りも盗んで、最後は正体がばれる時、大騒ぎして七つの道に逃げ去るものです(申命記287)。その現われは、蛇や犬のようにひんぱんに舌をスティックのように出したり(イザヤ574、エレミヤ98、詩篇574)、汚れた空気のような状態で叫んだり、吐いたりあくびしたりして汚れいっぱいで損させたり、恥かかせたりしながら出ていきます。アダムが食べて罪を犯したように、その子孫も食べてはいけない汚れを食べると霊の胃腸を壊して吐き出すのです。さらに強いものは物を壊したり(ルカ89)、小さな生き物を殺したり(ルカ830)、主の僕の血を流したりして(ヘブル124、使徒1633)、出ていくこともあります。

 

 黙示録一七節八節では大水の上に座っている大淫婦という女が、聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っているのを使徒ヨハネは目撃し、この女がやがて滅ぼし尽くされると預言されていますが、キリスト教の歴史は今も殉教者たちの流された血の土台の上にリバイバルしながら世界に広がりを見せています。その始まりは、サタンの頭を打ち砕いた勝利の主イエスさまの十字架の血潮にあります。

 

使徒パウロが占いの悪霊を女から追放した後、この悪霊は住む家を失い、全地の面と地下のよみを拠点に聖霊さまの水のない所をさまよったあげく、どこにもないので渇き果てて、このまま敗北してよみに帰ればサタンに怒られるので、什返しに女から占いで利益を受けていた悪霊の影響根強く利用しやすい主人たちに強く働きかけ、パウロを迫害し、役人に訴え出て、獄中にまで役じました。その時、パウロとシラスはむち打たれ血を流したのです。特に強い種類の悪霊は血を流すほど本格的な命がけの信仰で取り組んで戦う時出ていく、実にしつこい性質のものもあります。

 

 私は今まで救われた信者の家の仏壇や神棚などの偶像を焼き捨てる作業中、手を軽く切って血を流したことが何度かあります。また、悪霊の対抗というものもありますが、これも立ち向かう時必ず勝利できます。イエスさまが舟に乗られ湖の向こう岸ゲラサ人の地に行きレギオンにつかれた男を救おうと出発されると湖上の大暴風に見舞われ事前の妨げを受けました。イエスさまはその時、権威をもって風と湖の背後に働くレギオンを見分けてしかりつけて言われました。

「だまれ、静まれ。」(マルコ439

 

悪霊を追放すると風は止み、湖は即座におおなぎになりました。イエスさまは御名の権威をもって勝利されました。

 

 パウロもまたこの種の攻撃的妨げを受け、コリントからテサロニケの教会に行くことを二度もサタンに妨げられたと告白し(第Ⅰテサロニケ218)、ローマの教会に行くことも何度も妨げられ、今なお妨げられているため行く代わりにローマ人への手紙を書き送ったのです(ローマ113)。

 

 マルコの福音書五章六節では、嵐を静めたイエスさまが船でゲラサ人の地に到着した時、船沈没作戦に大失敗し、もはや勝ち目のないことを知ったレギオンがここですぐに駆け寄ってきて、イエスさまを拝し、嘆願する戦術に作戦変更しています。勝ち目がないと解ったため変更してこびへつらう戦術です。このようにサタンはいつも狡猾で、巧みにかけられた罠のような策略を使う性質があります(第ニコリント211、エペソ411611)。しかし、神さまの子供である私たちは悪魔の仕業をことごとく打ち壊すことができます(第一ヨハネ38)。

 

 悪霊は人間の中から追放されると、さらに次元の低い存在である動物の中に入って暴れることもあります。一人に六千匹もの悪霊が住んでいた大型リゾート・レギオンマンションのような男から悪霊どもがイエスさまによって追い出されたとき、律法的に汚れたものとして入りやすかったのか動物の豚を選んでレギオンは引越ししました(マタイ832)。

いっせいに六千匹の悪霊軍隊が二千匹の豚の群れに入り込んだため一匹の豚につき平均三匹ずつ入りました。すると一匹の豚の頭の中で一匹の悪霊は山へ行こうと言い、もう一匹の悪霊は海へ行こうと言い、もう一匹の悪霊は空を飛ぼう、と言うから豚は頭が狂ってしまいいっそのことすべての願望を満たすミックスした行動をとろうと思い、山のように高い崖の上から海のように広い湖の中へ空飛ぶ鳥のように豚の群れはダイビングしてしまいました。

 

 ピリピの教会には犬と悪い働き人と肉体だけの割礼のものに気をつけるよう教えていますが(ピリピ32)、信仰のない異邦人や悪者や律法主義者だけでなく文字通りの犬にも悪霊が入って狂犬病のようになることもあります。

 

 以前、茨城県のある聖徒の家で三十人ほどの子供のクリスマス礼拝を捧げ、信仰告白を導いた時のことです。子供たちから悪霊の出て行ったちょうど同じ時刻に、礼拝に来れなかった隣の家では、にわとり小屋に狂った犬が網を破って入り込み十数羽を引き裂いたことがありました。しかし時に犠牲があっても、主は私たちのたましいの救いを最上のこととして考えておられます。豚の群れという大きな財産以上、たった一人のレギオンにつかれた人の解放を主は優先されます。主は私たちのことを天よりも、地の富よりも尊ばれ、特別な存在として第一に愛していらっしゃるのです。

 

しかしながら主は動物も愛しておられます。私の妻が以前、祈祷院で毎月の三日間の断食が終わって聖霊さまに満ちて帰宅した時、家で飼っていたペットのセントバーナード犬が風邪を惹いて死にそうになっていました。獣医の話ではもうだめだということでしたが、妻は信仰が生じて家族のように愛する犬の頭に按手して熱く祈りました。祈ると申命記二八章四節の御言葉が心に強く迫ってきたのでさらにいやしを堅く信じました。

「あなたの身から生まれる者も、地の産物も、家畜の産むものも、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も祝福される。」

 

信じて祈り終わると犬はいやされて元気に立ち上がりました。

 

私たちがイエスさまの御名の権威と血潮の力でサタンに命ずる時、主の権威に従わずあくまでも対抗して出て行こうとしない不従順な悪霊どもは神さまの霊の世界の法律を犯すため、まだその時ではないのに暗闇の穴の中に投げ込まれる刑罰が用意されています(第二ペテロ24、ユダ6)。

 

 悪霊どもはこの唯一の主権ある神さまの法律をよく知り恐れおののいています(マタイ829、ヤコブ219)。ですから、この知識を持ってねばり強くあきらめない信仰で祈る時、最後は必ず一匹残らず悪霊追放することができます。悪霊追放後は絶対、心も環境も再び受け付けないように決心して、力の限り見張ってイエスの血潮で心を守ればよいのです。そして必ず「二度と帰ってくるな!」(マルコ925、ルカ1124)と宣言して心の扉を閉じて感謝礼拝しましょう。

 

クリスチャンなら誰でもイエスさまを信じた時から、すでに勝利者であり、心の王座はただイエスさま、ただ聖霊さま歓迎の神殿です。霊的病サタンを追放できる権威ある存在です。