真の大祭司
最後のアダムなるイエスさまは、十字架に掛かり死の眠りにつきました。しかし、このような正しいお方がいつまでも死につながれているはずは絶対ありません。アダムが神さまからの手術後、深い眠りから再び目覚めたように、イエスさまは死の床から再び立ち上がられました。
キリストは聖書の預言に従い、三目後の日曜の朝よみがえられました。復活の朝の出来事です。悲しみに沈むマリヤにイエスさまはご自身を現わしてくださいました。
「マリヤ」
そう呼びかける復活のイエスさまの御声を聞き、霊の目が開いたマグダラのマリヤは、イエスさまを見い出し「ラボニ(先生)」と叫び、感極まる喜びに満ちました。ところがそんなにまで復活のイエスさまを喜び、今や抱きつかんばかりのマリヤを制してイエスさまは言われました。
「私にすがりついてはいけません。払はまだ父のもとに上っていないからです……」
ここでなぜイエスさまはマリヤを拒んで、すがりつくことを禁じられたのでしょうか。それは成就すべき大祭司イエスさまの仕事がまだ残っていたからです。では、これについてさらに深い奥義を学んでみましょう。
大祭司は年に一度、あがないの礼拝をする時、必ず祭壇でほふられた動物の血をたずさえて至聖所へ入り、これを二つの翼を広げた御使いの模型ケルビムの覆う契約の箱の上と、周りに振りかける定めがありました(レビ6:14、15、ヘブル9:7)。しかしこの血を注ぎ終わって、至聖所から出ないうちは、誰も大祭司にさわってはいけなかったのです(民数記18:4、レビ16:17)。
幕屋の構造は、手前に民の待つ大庭、そして聖所、さらにその奥にある至聖所と三段階になっており、一番奥の至聖所は真に聖なる神との会見の場であり、大祭司以外は絶対誰も入れず、もし、大祭司でさえ、いけにえの血を携えずに罪人のまま入り、奉仕するならば、そこで彼は打たれて即死したのです。
そのため大祭司にはいつも長いひもを結びつけ、音の響く金の鈴をたくさん身にまとわせてから至聖所の中へ入りました(ヘブル9:7、出エジプト28:34~37)。至聖所の外で待っているイスラエルの民は、大祭司に結ばれた長いひもの先端をしっかりと握り締めながら、大祭司が歩くごとに確かに聞こえてくる「チャリン、チャリン」という鈴の音で生存確認していたのです。
しかし、ある瞬間この音が長期的に絶えると民は騒然と緊張状態です。レビ人たちがひもをゆっくり手繰り寄せ、張られたひもの反応で至聖所内にいる大祭司の生存を確認します。それでもなお反応がない時は、大祭司が聖所内で何者かにさわられたか、動物の血が入った器をうっかり忘れ物にして至聖所に入ってしまったため、罪のあがないを失敗して即死してしまったことを意味し、レビ人たちは慌ててひもを引いたのです。
「チャリン、チャリン、チャリン、チャリン」
すると神さまに打たれて即死した大祭司が大きな魚のように釣れたのです。旧約時代の律法では御前に仕えることが、これほど、荘厳、厳粛かつ神聖なことだったのです。ですから御言葉に忠実な真の大祭司イエスさまは、まだ真の至聖所のある天国であがないのための血潮を注いでいなかったため、マリヤにさわられることを拒み、さらには真の至聖所のある天国へ昇天する必要があったのです。
十字架の祭壇で流されたイエスさまご自身の貴いあがないの血潮を、父なる神のおられる天の真の至聖所へ届け、振りかけるためです。そのため栄光の主イエスさまは四〇日の間、五〇〇人以上に現われ、復活を確かに証明された後、弟子たちの見る中オリーブ山から雲に包まれて天に帰られました。私たちの救いが完了したからです。私たちの家を準備して下さるためです。
そして私たちの真の大祭司としてあがないの血潮を父なる神の御前に注いで、とりなし下さるためです。栄光と勝利の主イエスさまはこうして復活後、真の至聖所なる天国へ堂々とご自身の流された十字架の血潮をたずさえて戻られたのです。天国には神の神殿の御座の前に開かれた聖所(至聖所)があります(黙示録7:15)。
イエスさまはご自身の十字架で流されたあがないの血潮をそこで注がれたのです。その瞬間、想像ですが、待ちに待った父なる神から御子イエスの勝利の凱旋を喜ぶ激励の大きな御声が、天国全域に鳴り響いたことでしょう。
「これぞ、まさに我が子のあがないの血潮!我が子の命!、人間の罪に汚されなかった勝利の血潮である。我が純血を守り通した聖なる血統の血潮である。我が命!、私はこれを喜んで受け入れよう」
続いて御使いたちの大歓声と鳴り響くラッパ、演奏に合わせた天国聖歌隊の大コーラスの讃美が続いたかもしれません。勝利の大祝賀会、天国の栄冠式です。こうして王位を受けた栄光輝くイエスさまは王の王・主の主にふさわしく父なる神さまの右の御座に着席されたのです。