裂いて渡されたパン

 

 

 ルカによる福音書二四章三〇節によると、エマオ途上にいた弟子たち人は、復活されたイエスさまご自身に道で出会い、共に歩み、聖書の話しを聞き、心が熱く燃やされ、夕食の席まで共にしたのに、不思議なことに彼がイエスさまご自身であることがわからなかったと書かれてあります。

 

世界最高水準の旧約聖書講解メッセージを直接イエスさまからお聞きする光栄に預かれたのに、霊的に鈍い二人はイエスさまが悟れなかったのです。しかしこのような二人の閉ざされた霊の目が開かれ、そこにおられるお方がなんと主イエスご身であることを本当に悟れたきっかけとなった出来事は、イエスさまがパンを裂いて彼らに与えられたまさにその瞬のことでした。

 

 今の時代も繰り返し聖書の話しを聞き、心熱くされますが、私たちの霊の目が開かれ救い主イエスさまを本当に知ることができる神さまとの劇的出会いの体験は十字架の言葉であり、イエスさまの肉が十字架上パンを裂くように裂かれて、血潮を流されたという神の御子の身代わりの犠牲愛、この真理をイエスさまより直接受け取るその時です。現実に十字架についたイエスの血潮を見上げない限り、本当の信仰は生じません。

 

 

 私は一度、夢でピラトの庭でムチ打たれた直後のイエスさまを見たことがあります。私は彼がイエスさまご自身であることが、なぜか分からないけれど、霊のうちですぐわかりました。

イエスさまはムチ打たれた後、体をひきずるようにして私のそばに来てそこで倒れました。そのイエスの御体は驚くほど深い無数のムチ打ちの傷跡がついたまま真っ赤な血まみれ状態でした。そこで私は早く救急車を呼ばないと、このまま放っておけば出血多量のまま死んでしまうと思い、心が震えながら近づいてみました。

 

よく近くで見ると、イエスさまは当時の私のイメージとは少し違い、黒っぽい髪をしたユダヤ人の好青年という感じでした。私のイメージではもっと年配で金髪のイエスさまでしが、まだ若い三三歳の普通の若者でし。イエスさまのひとみには驚かされました。多くの人を惹きつけるような本当に、清らかで聖なる美しい目でした。

 

しかし、その表情はむち打ちと暴力により、激しい苦痛に満ちたものであり、白い歯を食いしばりながら、ひたすら耐え忍ばれているようでした。はイエスさまの苦しみがく御姿を見つめるうちに感情を制することができなくなって、そこで大声をあげて泣き出して「イエスさま!」と叫びながら彼に抱きつきました。するとその瞬間、イエスさまの全身驚くほど血まみれだったその赤い大量の血潮が、私の両手にも移ってしまい私も血まみれで真っ赤になったのです。

 

ところがなんの不快感もなく、むしろイエスの血潮は人を清める力がありました。不思議なことにイエスの血潮を受けるや否や、私の唇からは次々と私自身の罪の告白が何の抵抗もなくスムーズに出てきたのです。普段ならば一時間位祈らないと、すぐには心底出来ない悔い改めもイエスの血潮を受けると速やかにしかも自発的にどんどん出てきたのです。

 

私だけでなくイエスの血潮に触れられた人ならば、誰でも心からすぐに侮い改めたくなるものだと思います。悔い改めが自然に楽しくなるのです。そこでは目覚めました。目覚めた後も心は熱く、目には涙でした。

 

 

 イエスさまが十字架につけられ血潮にまみれて激痛を受けられたのは、払たちを罪の世からって、本当に神さまに仕えるご自身の聖なる民として聖別するためでした。イエスさまの犠牲を思う時、ただ感謝せずにはおられません。何を持ってしてこの純粋な聖い愛に答えてお返し出来ましょうか。十字架で身体が裂かれた命のパンなるイエスさまに触れれば、閉ざされた霊の目が開いて救い清めが受けられます。