第7章 天の御国

 

 第七、最後にイエス・キリストの血潮は、私たちを審判から救い天国へ入れます。

 

 私たちが復活の栄光の体を持つとき天の御国にも入ることができます。

 イエスさまは、天の御国を王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえて話されました(マタ

2212)。王は父なる神、王子はイエスさまです。神の御旨は、初めに福音がユダヤ人に受け入れられ、それから全世界の異邦人へ語られるものでした(マタイ1527、使徒2828)。

 

ところが、すべてが完全に準備された宴会のような天国の招きに対して、ユダヤ人たちはこれを拒み、気にもかけずにある者は畑へ、別の者は商売に出て行き、さらにひどい者たちは王のしもべたちである人々を天国へ招くよう遣わされた預言者たちを殺しました。中でも最大の殉教者はイエスさまです。そのため王である父なる神は怒って兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、反逆の町イスラエルを焼き払いました。キリストの十字架以降AD七〇年に起きたローマ軍による滅亡の惨事です。生き残ったユダヤ人は世界へ散らされました。それゆえ王は僕に命じて全世界という大通りに出て行って、出会った異邦人を皆、代わりの客として天国という宴会場へ招くよう呼びかけました。

 

こうして約二千年かかって宴会場は善い人も悪い人も関係なくいっぱいになりました。そこで王が客を見ようとして入ってくると、そこに王家の結婚披露宴なのに礼服を着ていない無礼な者が一人まじっていました。彼はいつもの普段着を着ていたのでしょうか。あるいは、自分の考えで一番良いと思う礼服以外の立派な服を着ていたのでしょうか。全くのボロをまとっていたでしょうか。いずれにせよ礼服ではなかったのです。そこで王は彼に向かって質問しました。

 

 「あなたはどうして礼服を着ないでここに入ってきたのですか」

 

しかし彼は黙っています。そこで王はしもべたちに命じて、いきどおりの宣告を下します。

 「あれの手足を縛って外の暗闇に放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ」

 

 イエスさまはこのたとえ話により教訓されました。王の宴会のような讃美と喜びと栄えに満ちた天国に入るには、礼服が絶対必要だということです。天国入場資格は異邦人であっても大丈夫です。頭の善し悪しも関係ありません。人問的な良い行いにもよりません。ただ、老若男女、貴賤貧富、一切関係なく、誰でも礼服さえ着ればそれでいいのです。

 

紳士なる神の御前、結婚披露宴には必ず礼服着用義務があります。普段着では追い出されます。天国は、何もせず死んだら誰でもそのまま無条件に入れる所ではありません。自分の考えで上等だと思う服でも、礼服でなければそれは披露宴には不適です。

 

天国は自分の考えによる善行や、倫理、道徳、宗教、哲学などによっても入れません。礼服以外はみな異端です。ましてや、罪の汚れと呪われた貧困意識いっぱいのボロをまとって入れるところでもありません。ただ信じて着るだけでその人の意識を変えて立派に見せる礼服があります。

 

それがイエスさまの十字架の血潮の衣です。イエスの血潮信仰が天国への入場資格です。

将来私たちが天国の都に着くと、天国の都には巨大な真珠の門があって門衛に力ある大きな天使が立っているのを見ます。そこで必ず小羊イエスさまのいのちの書に名前があるか否かを確認されます。イエスの血潮で洗われて救われた私たちは、礼服を着て披露宴に入る者のように誰でも都に入れますが、イエスの血潮信仰を受けていない人は、いのちの書に名前がないため、礼服を着ない者のように外の暗闇に追放されてしまい、そこで泣いて歯ぎしりすることになります。

 

黙示録七章一四節にはこれから将来起こることとして終末の七年間の大きな患難を逃れて天国へ移されたクリスチャンについて、彼らは「その衣を小羊の血で洗って白くしたのです。だから彼らは神の御座の前にいる」と預言されています。