一本の潅木

 

 

 イエスの血潮を受けて注がれた聖霊さまは、水のようにも臨在される神さまです。イエスさまは約束されました。

 「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書がいっているとおりに、その人の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ73738

 

創世記章一五節では、主人アブラハムの所から追い出された奴隷女ハガルとその息子イシュマエルが、革袋の水も尽き果て、あてなき荒野で死の試練にあった時のことが記録されています。

 

絶望的になった母ハガルは息子を一本の潅木の下に投げ出し、自分は矢の届くほど離れた向こうに行って座り込んで大声をげて泣きました。それは、「子どもの死ぬのを見たくない」と思ったからです。荒野で水がないことは、即、死を意昧します。ところが憐れみ深い主は、ハガルの目を開き、今まで近くにあっても全く気なかった井戸を発見させたのです。彼らはこの水により、生き延びて救いを得たのです。主がこのように救いの井戸を啓示されたのは、ハガルの泣く声ではなく、潅木の下にいた少年イシュマエルの声に答えられたためです(創世記2117)。このことは私たちにとっても大切な教訓です。

 

 

 今、さまよう荒野のような厳しい人生で思いがけない死の試練に苦しむ時が誰でもあります。

荒野で水がなくなるように、生命維持の糧となる職場と収人が断たれてしまう時、誰かが救われないまま世を去り、渇ける永遠の死に落ちそうな時、変わらない真の愛に渇きを覚える時、すベてこのままでは、早かれ遅かれ確実に死が忍び寄る試練体験の時、ハガルのように右に左にそれた矢のような罪の世に座り込んで泣いていても、何ら創造的な奇蹟も救いもありません。誰でも死の試練から本当に救われたいならば、今すぐ行ってただ一本潅木の木下でひれ伏してイシュマエルのように真剣に祈ることです。その時、奇蹟が起き、救いの源泉、枯れない井戸水を大発見できるのです。

 

 私たちの行くべき祈り場なる潅木の木の下とは、血潮に染むイエスさまの十字架のの下です。

ここでひれ伏して本気で祈る時、血潮が注がれ根本的な問題解決、永遠に枯れない救いといのちの源泉、聖霊の水を大発見し死の試練から救われるのです。

 

だれでも渇いているなら、聖霊さまの井戸水を飲んで活力を得、人生に復興をもたらしましょう。試練の涙に目が曇り、かくも身近にありながら発見できなかった救いの井戸のように、聖霊さまとの出会いは、人に捨てられ環境に飲み水さえないような絶望の時こそ、十字架の下で、イエスの血潮を仰いで発見できる実はかくも身近な所にすでに準備されている恵みです。

 

荒野のただ中にこそいのちの泉、聖霊さまが共におられます。井戸は教会の象微でもあります。足を踏ん張り繰り返し重い水を汲み上げるように、その足で努力して教会に集い、繰り返し祈りをもって聖霊の満たしを求めましょう。祈りは確かに重労働です。

 

しかし、死の試練の只中祈りこんで聖霊の井戸水を大発見できれば、そこから繰り返し命の水を豊かに汲み上げて飲み、新しい人生の基盤がそこから復興されるのです。