金のしゃく

 

エステル記に登場するアハシュエロス王はここで父なる神を象徴します。

 

後に王の右に座る位を受けたユダヤ人を救う解放者となったモルデカイは、イエスさまを象徴します。モルデカイは自分の民の幸福を求め、自分の全民族に平和を語りました。

 

そして、同胞のユダヤ人のために命をかけて戦った勇気ある王妃エステルは、私たちクリスチャンのあるべき姿を象徴し、

 

ユダヤ人へのひどく悪質な迫害者だったハマンはサタンを象微しています。

 

 ハマンは自分に頭をさげず、真理と信仰に堅く立つユダヤ人モルデカイを非常にねたんで憎しみ、モルデカイだけでなくユダヤ人全体をも迫害して殺害しようと策略を練った悪者です。しかし、最後は自らが設けたわなに捕らえられサタンの運命同様、滅ぼされています。

 

 一方、モルデカイは迫害されれば、されるほどいよいよ高められ、究極的には二度も王の前から町に出てきて、王服をまといながらユダヤ人の群衆の前で国王とユダヤ人の栄誉を受け、大いなるかっさいを受けました。

 

一度目は王の馬に乗って、その足を地面に着けることなくユダヤ人の前に登場し(エステル611)、二度目は地面に足を着けて歩きながら金の冠をかぶっての登場です。

 

会衆前でのモルデカイの栄光満ちた登場とは、すなわちユダヤ人の命を迫害者の策略から救った解放宣言のためでした(エステル815)。

 

「ユダヤ人にとって、それ(モルデカイの登場)は光と、喜びと、楽しみと、栄誉であった。」

 

このことはちょうどサタンの迫害を受けながらも、十字架の血潮で勝利され昇天されたイエスさまが、王なる御父のおられる天国から出て来られる

一度目の足を地面に着けない空中再臨と、

二度目の足をオリーブ山の地面に着ける地上再臨のとき、私たちから必ず大かっさいをあびる解放者イエスさまを現わしています。イエスさまはその日、私たちの光と、喜びと、楽しみと、栄誉になります。

 

「その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の・・・感嘆の的となられます。」(第二テサロニケ110

 

 モルデカイの大勝利とユダヤ人の自由解放の背後には命をかけた王妃エステルの献身的信仰があります。エステルはユダヤ人の一人として同胞の同国人を本当に愛し、ユダヤ人であることを恥とはせ

ず、王の前でも隠すことなく堂々と身元を告白し、その救いのために立ち上がった勇士です。

 

もしエステルが立ち上がらなかったならば、モルデカイが語ったとおり、他から救いが現われたことでしょう。だが、エステルはユダヤ人の救いこそ自らの使命と確信し、命をかけて断食祈祷と信仰を持ってアハシュエロス王の所へ行き、ユダヤ人の救いを嘆願しました。

 

王にはユダヤ人を生かすも殺すも、すべての権威が与えられています。エステルにとって王妃としてできるすべてのことは、ハマンの巧妙に立てられたユダヤ人殺害計画を打ち壊すように王に助けを求めることです。しかし、通常いかなる人であっても王の前に出て行くことは王から直接召されない限り禁じられており、この法令に背く者は誰でも死刑に処せられたのです。その厳戒態勢は歴史家ヨセフスの文献によると、召し出されていないのに玉座に近づく者を罰するために、おのを持った男たちが玉座の周囲に立てられていたほどです。

 

しかし、ここにたった一つの王の前に出て行ける例外的な救いの手段がありました。王の好意を受けて、王の手に持つ金のしゃくが差し伸べられたその時、そのしゃくに触れば王室にて王との親しい面談が許可されたのです。まさにエステルにとってこれは命がけの大冒険でしたが、エステルは信仰と勇気を持って行動に移し、王の好意をみごとに得て、金のしゃくが差し伸べられ、あとはすべての嘆願の内に、その願いは聞き届けられユダヤ人を救いました。

 

 エステルは、今日の私たちクリスチャンのあるべき姿の象徴です。今、父なる神は勇気あるエステルのように命をかけて断食と祈りを持って同胞の同国人への救霊愛に燃えている人を捜しておられます。父なる神は金のしゃくをそんな勇士に差し伸べたいのです。確かに私たち、罪ある人間は元々どうしても王なる神の御元に自ら進み行くことはできません。罪人が御父の御前に立ち、御顔を拝するならば、ちりに等しい私たちはたちまちに死んでしまいます。しかし、ここにたった一つの救いの手段がすでに準備されていたのです。

 

 そうです。御父の元から今差し伸べられている金のしゃくに触ればよいのです。金のしゃくとはギリシャ語でスケープトロイであり、金の棒という意味もありますが、私たちにとって純金の棒以上に尊い棒とはイエスさまの十字架の木です。

 

王なる神の御手の中にいつもある十字架という栄光輝く金のしゃくをとおして御前に進み行けば、例えどんなに罪深い者であったとしても、無条件に王なる神さまの好意を得て、親しい面談が許可され、愛されて受け入れられるのです。

 

この金のしゃくはエステルのように信仰を持って御前に進み行く人にのみ差し出されています。

イエスさまが私のために十字架で血潮を流して死なれ、葬られ、三日目によみがえられた、この真理を本当に信じる人だけつかむことのできる金のしゃくです。

 

ですから、エステルのように勇士となって切に断食祈祷を捧げて命がけの救霊愛を持ってこの地の救いのために立ち上がりましょう。十字架の血潮にすがりついて王なる神さまに祈って嘆願しましょう。その本気の信仰を見て王であり父である神さまは必ず答えて下さいます。

 

「王は彼女に言った。「どうしたのだ。王妃エステル。何がほしいのか。王国の半分でも、あなたにやれるのだが。」(エステル53

 

 これを読むあなたが破れを繕うもの、サタンの霊的迫害と策略を打ち破るリバイバリスト・エステルになってください。王なる神さまがあなたの勇気ある信仰と救霊への情熱を感動されて、語られたならばその御言葉は誰も取り消すことも閉じることもできないリバイバルの扉を開きます。

 

「…この日に王の命令とその法令が実施された。この日に、ユダヤ人(クリスチャン)の敵(サタン)がユダヤ人を征服しようと望んでいたのに、それが変して、ユダヤ人が自分たちを憎む者たちを征服することとなった。」(エステル91

 

「諸州の首長、太守、総督、王の役人もみな、ユダヤ人を助けた。彼らはモルデカイ(イエス)を恐れたからである。というのは、モルデカイは王宮で勢力があり、その名声はすべての州に広がっており、モルデカイはますます勢力を伸ばす人物だったからである。」(エステル934

 

 エステルが立ち上がるとユダヤ人全体も背後でエステルを動かし、動機付けていた本当の重要人物、ユダヤ人の救いモルデカイを知るようになりました。私たちのモルデカイなる救い主イエス・キリストを世界が知るようになるのも、今の私たちの信仰の決断と献身的勇気ある信仰の行動にかかってます。なぜ、私たちは多くの人々の中から選ばれて救われたのでしょうか。なぜ、私たちの国籍は何もしていないのにすでに王宮のような天国に置かれているのでしょうか。理由があります。振り返ってモルデカイのエステルヘの助言の言葉に耳を傾けてみましょう。

 

 「あなたはすべてのユダヤ人から離れて王宮にいるから助かるだろうと考えてはならない。もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」(エステル41314

 

 さあ、イエスさまの招きに答えて勇士エステルのように献身的に立ち上がりましょう。あなたの力が今、この国を救うのです。

 

 「王の諸州にいるほかのユダヤ人も団結して、自分たちのいのちを守り、彼らの敵を除いて休みを得た。…その十四日には彼らは休んで、その日を祝宴と喜びの日とした。」(エステル91617

 

 あなたは主にとって決して小さくありません。あなたが主の勇士であることを自覚して目覚め立ち上がる時、リバイバルは全地に広がり、教会は団結して自らの霊的いのちを守り、敵なるサタンを除き去り全面勝利できます。

 

まもなく、すべての敵が消え去る全き安息の日、小羊イエスの大いなる祝宴と喜びの日である再臨が訪れます。その前に終末最後のリバイバルも訪れます。すべての民が目覚める偉大なリバイバルの発火点であり鍵である金のしゃく、イエスさまの十字架の血潮にまみれた木を勇気と献身的いのちをかけた本物の信仰でつかんで、すべての支配権ある王なる御父に熱く嘆願して祈りましょう。

 

 私が一七歳から通い始めた教会生活で、二年間、求道者として歩んでいたころ、一九歳で聖霊のバプテスマを受ける直前、フィリピン国内各地を旅行をしました。当時、大学生でしたが、夏休みに三週間かけて滞在しましたが、そんなある日のこと、地元のワルと意気投合した私は彼からマイファナを買い付け、これを吸って酔っぱらいました。目が赤く充血して、へらへら笑いながら陽気になってマニラのスラム街を散歩していました。すると地べたに座る地元の数人が私が麻薬中毒状態であることを知って、からかいました。叫ぶタガログ語は不明ですが、ポリースという単語は明瞭に聞こえ「警察に突き出すぞ!」というたぐいのことを言われたようです。

 

怖くなった私は見つかると逮捕、強制送還、大学退学…さまざまな恐れにとらわれて逃げ出しました。走って、走ってスラム街の道を潜り抜けてただひたすら彼らから逃げました。実際には彼らは私をからかっただけで追いかけてはいませんでしたが、怖くて逃げ続けました。マリファナの特徴は酒で言うところの悪酔い以上にひどいバットトリップと言われる現象があります。上機嫌か悪酔いかのどちらかになります。初めて体験したバットトリップのせいでひどく恐れに満たされて逃げました。後で聖書を読むと「悪人は追う者もないのに逃げる。」(箴言281)と書いていました。

 

逃げてようやくたどり着いた現場は狭くて汚い三方塀に囲まれた袋小路。なんだかその環境自体が追い詰められた当時の私を象徴しているように思えました。しかも、真夏のフィリピン、かなりの高温に壁にはヤモリや大型のネズミがそこら辺をガサガサ音を立てて走り回って驚かせます。神さまのすごい演出効果だったと思います。私はその呪われた環境でどうしていいか分からなくなって最後に座り込んでバットトリップの苦しみの中で祈ることにしました。主の祈りはこの程度の罪人でも教会で聞いて全文暗記していました。主の祈りが終わると、後は祈りの言葉がありません。そこで人生初めての自分の言葉、自己流の祈りをしてみました。

 

「神さま!本当にあなたがいるのであれば、私をこの苦しみから救って癒して下さい。もし本当に私を救って癒し、無事、日本に返して下されば、帰国後はクリスチャンになりますから、助けて下さい。イエス・キリストの名前で祈ります。アーメン」

 

祈り終わると、上のほうにあった窓が開き、そこから工場の労働者のようなフィリピン人が私を見下ろして何か言っています。再び驚いて立ち上がり、スラム街をひたすら走りました。どこを走ったかも分からない雑踏の中、時折、銀行門前に立つプライベートポリスの手にしたライフル銃ばかり目に留まり、怖かった。しかし、不思議でした。気が付くと自分の滞在していたドミトリー、格安宿泊所に到着しているではありませんか。驚きながら部屋に戻り、シャワーをして眠り、やがて酔いから覚めました。

 

帰国後、私は救われクリスチャンになりました。「クリスチャン」その意味は重いです。

「クリスチャン」それはキリストの弟子です。

 

今、私がキリストの弟子として牧師をしていることも、あの日のフィリピンでの誓願の祈り、炎天下で麻薬中毒、死の苦しみの中から祈った、祈りにあると思っています。

神さまはある人々には誓願の祈りを人生のどこか最悪の試練の只中で祈らせ、献身の道に導かれる人もいます。