額の印

    

エゼキエル九章では終末のイスラエルに対する審判を預言します。御使いを象徴する七人がいます。六人の男は各々に打ち壊す武器を片手に持ち、七人目の人は亜麻布の衣を着、手には書記の筆入れをつけていました。すると主は七人目の一人に命じました。

 

 「町の中、エルサレムの中を行き巡り、この町で行われているすべての忌み嫌うべきことのために嘆き悲しんでいる人々の額にしるしを付けよ。」(エゼキエル94

 

 続いて主は武器を持つ六人に町の中を行き巡り、審判するよう命じました。しかし主は加えてもう一つ言われました。

 

 「彼のあとについて町の中を行き巡って、打ち殺せ。惜しんではならない。あわれんではならない。年寄りも、若い男も、若い女も、子どもも、女たちも殺して滅ぼせ。しかし、あのしるしのついた者にはだれにも近づいてはならない。まずわたしの聖所から始めよ。」(エゼキエル956

 

 今、イスラエルだけでなく終末の裁きは、神さまの家なる教会から全世界にまで始まろうとしています。しかし世の罪悪を悲しむ性質を持つ、聖霊さまを受けたすべてのクリスチャンの顔の額には御使いによってイエスの血潮のしるし(黙示録73)がすでに付けられています。これが私たちと世の人を見分けて、審判から救う確かな契約のしるしです。

 

 また、創世記のノアの時代、全世界に審判の水が覆った時、箱舟を造って乗り込み、水の上に浮いていれば救われたように、今から反キリスト、ロシアによる第三次世界大戦、アジアから二億の軍隊による世界最終戦争等、数々の炎が全世界を取り巻き、地震や飢饉、疫病が地を覆う時、逃れる道はただ一つ、熱く混乱に満ちた地上を離れ、空中に浮くことにあります。聖書は七年続く(ダニエル927、エゼキエル399)世の裁きの大患難時代にもあなたを守ると約束しています(黙示録310)。

 

イエスさまが空中から下りてこられ、私たちをみもとに引き寄せて下さるからです(第一テサロニケ41618、マタイ244041)。

 

 ちょうどノアとその家族が大洪水を事前に知って逃れたように、ロトとその家族がソドムとゴモラ滅亡を事前に知って町から逃れたように、世に対する七年の裁きが来る事前にこれを知る私たちクリスチャンは空中のイエスさまのふところへ家族と共に逃れることができます。イエスさまがその日はノアの日や、ロトの日のようだと教えられたとおりです(ルカ172628)。

 

 図12の箱舟は聖書と発見された残骸から想定された復元図であり、三階建て箱舟を側面から見た見取り図の内、下半分位が実際に確認されています(図13)。

 

箱舟の甲板部分に張り巡らされたひもは測定のために張られました(図14)。

 

興味深い箱舟発見の経緯はこのようです。一九四八年、聖書の示す箱舟停泊地のアララテ山脈の一部ジュデェイ山の麗の台地に起きた地震の力で突然、船型の岩が姿を現わしました。これを一九五九年、トルコの空軍兵が空撮写真で発見。船の寸法は長さ一五〇メートル、幅四五メートル、高さ一五メートルであり、聖書の記述と幅以外はほぼ一致、幅だけは土砂に理まって押し広げられたため二〇メートルほど増大していました。

 

その後、一九七〇年ロン・ワイアット氏が、この近く(六〇〇メートルの高地で海から何マイルも離れた所)でたくさんの石の巨大ないかりを発見。これは宗教的な象徴として崇められていたらしく、数百年にわたって記号や十字のしるしが刻まれており、引き石は縦三メートルの大きな岩塊で真中には固定用の穴が空いていました。

 

通常、古代船に使われた同様の石はもっとサイズが小さく、地中海の各所でも発見されています。一九八五年、深海潜水者のダビデ・ファソルドは超高感度のレーダー装置を使って船首から船尾への内部区分と隔壁の問に差渡したはりを確認。さらに通常あるはずのない地帯で、レーダー装置は箱舟内部の釘などに使われたであろう鉄、その他の金属が集中しているのを探知。一九八七年、トルコ政府はこれを受けてノアの箱舟国定公園設置となり、今日広く知られるようになりました。

 

 さて、ノアの日、彼らの救いとなった箱舟とは主の命令に従って強いゴフェルの木で造られており、箱舟のサイズは一キュビト五〇センチで計算すると大型客船に匹敵する長さ一五〇メートル、幅二五メートル、高さ一五メートルでありました。内部構造は三階建てに仕切られ、これらすべてを啓示された偉大な英知に富む設計士は主ご自身でした(創世記61416)。当時造船技術も充分発展していなかったはずの今から約三五〇〇年も古代の大昔に創造された箱舟に現代の造船技術者たちは驚嘆しています。主から啓示された箱舟の長さ、幅、高さの比率は三〇対五対三であり、これはきわめて高い安定度と安全性を持つ設計であったことが分かったからです。

 

 この比率で実際に模型を作ってどれほどの津波にまで耐えられるか実験したところ、いままでの歴史で観測された最大の津波が高さ三五メートルでしたが、この箱舟サイズの比率で造られた船ならば、実に高さ四五メートルの津波が押し寄せても転覆せず、強度的にも耐えられることが判明したのです。もしも、この長さの比率が少しでも長すぎたならば、大洪水の際、強度が弱くなって真中から壊れる危険性もあり、反対に長さの比率が少しでも短かすぎたならば、大洪水の際、荒波で不安定になって横転する危険性もあったのです。

 

しかもこの箱舟は完璧な比率で創造され、内部構造が三階建てになっていたことも肉食獣と草食獣の動物たちをみごとに分別されただけでなく船内の間仕切りで船の全体強度をさらに高めていたのです。箱舟の長さ、幅、高さの比率三〇対五対三は今日のタンカーの黄金律と呼ばれて全世界で採用されています。そしてこのような完璧なサイズと高度な安全性能を持つゴフェルの木の箱舟のその内側と外側には「木のやに」、口語訳では「アスファルト」が主の命令に従い塗られていました。この木のやにが箱舟が浸水しないよう防水加工の役割を果たす、重要な覆いとなりました。

 

そして木製の箱舟は今、私たちの救い主イエスさまの高度で優れた完璧な救いをもたらす十字架の木を象徴し、その木に塗られた、なくてはならない重要な「木のやに」とはイエスの血潮を象徴していたのです。主が「内と外とを木のやにで塗りなさい。」(創世記614)と言われた時、この「塗る」という言葉には「カハール」が使われ、「あがない・買い戻す」という意昧も含まれており、これは十字架はイエスの血潮で全く覆われた木であり、払たちを完璧にあがない、買い戻す力があることを教えています。

 

この血潮の力で世の審判の日にもあがなわれ、空中再臨のイエスさまの御元へ水に浮く防水加工の箱舟同様、空に浮いて引き上げられるのです。

 

ノアの日、水の上に浮く義人たちと、水中に沈む世の人がはっきり分離しました。またロトの日とは、低地に住むすべての人々が罪悪の町ソドム・ゴモラと共に滅ぼされる日にも、高い山へ逃げればロトとその家族も助かるという主の約束がありました。患難時代の世界はソドム、ゴモラのような町です。そこは堕落した土に属する肉の人の住む滅び去る低地の町々であり、高い山へ逃げる必要があったのです。ここでも、高い山の上の義人たちと滅ぶ低地の世の人々がはっきり分離されました。それらのことが私たちにとって滅び去る地上を離れ、空高く引き上げられるイエスさまの空中再臨の象徴です。

 

 私は思います。もしも私たち皆が七年間地上に残されて大患難時代を体験しなければならないのでしたら、イエスさまのたとえ話はその日について、誤解されやすいノアの日やロトの日のようであるとは言われずに、人の子が来るのはちょうどダニエル四章二五節にある「七つの時」(七年間)、大患難を直接身に受けたネブカデネザルの日のようであると言われたことでしょう。

 

「彼は七つの時を気が狂って過ごし、人間の中から追放され、野の野獣と共に住み、牛のように草を食べ、体は露に濡れて、髪の毛は鷲の羽、爪は鳥の爪のようでした。だからあなたがたも同様七つの時を注意しなさい……」

 

と警告されたことでしょう。しかし聖書にはそう書いていません。もちろん聖霊さまの油なく残されて、七年患難を通して清まり、殉教して昇天する人もいます。しかし、一殷的クリスチャンは皆、こんな惨めな七つの時を過ごす必要はありません。ご自身の血潮であがなったイエスさまの愛している花嫁ですから、絶対引き上げられます。私は始始めこれについて正しく教えて下さる教師がなく、自分で聖書を研究して一つの結論がありました。

 

「私たちはみんな残されて、七年患難でテストされるのだ」

 

しかし、一般的には七年の前に空中携挙があると知られているため、メッセージの機会で終末論を語る時はいつも口では「皆さんは七年患難の来る前に空中にあげられますよ」と言い、心の中では「本当は残るよ」と言って、二心を持って説教していました。そんなある日の夜、悪夢の内に悪霊どもに襲われました。薄暗い四角形の部屋の四隅に人間に似た四人の悪霊が立っていました。

各々、気味悪い色のついた滑らかな肌を持ち、身長が三メートル位ある巨人の悪霊どもでした。そして四人は私を空中に放り投げ、バレーボールのトスをするように互いの間で私をボールにキャッチボールしてあざけり楽しんでいました。一方、私は空中に役げつけられているただ中でも心の内では「今ここは患難時代だ。空中に昇ろうか、地上に留まろうか、どうしよう」とそう考えている夢でした。目が覚めて震え上がりました。平安を求めて主に祈ると、悟りがきたのは「私の終末論が心の内に正しくないから悪霊につけ込まれたのだ」と、そう聖霊さまが教えて下さいました。

 

 そこで、朝起きるともう一度始めから聖書を読み直して祈りつつ研究しました。すると、結論は七年患難の来る前にクリスチャンは空中携挙されるという教えに目が開きました。確かに聖書にはイエスさまの空中再臨(第一テサロニケ41618)と地上再臨(ゼカリヤ1434、イザヤ641)の二回があるとはっきり書かれており、七年空中携挙体験は私たち教会にとって結婚披露宴(婚宴)であることが分かりました。古代からイスラエルでは結婚前に七日間の盛大な「婚宴」を設けて、飲み食いして祝い(士師記1412)、それから後、正式に「婚姻」を結び、二人は夫婦として認められるからです。私たち教会はイエスさまの花嫁です。花婿イエスさまが私たちを愛するから、空中に迎えに来られるのです。花嫁のいない「婚宴」など絶対あり得ません。二人が共にいて祝うのです。黙示録一九章七節では「小羊の婚姻の時がきて花嫁はその用意ができた」とあり、その後の黙示録一九章九節では「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ」と書いてあります。確かに「婚姻」と「婚宴」の両方があるのです。

 

 かつてカナン四十日間偵察隊の報告を聞いて否定的にこれをとらえ不信仰をつぶやいたイスラエルの民に対して一日を一年と数えて計算し、四十年の荒野をさまよう審判が主から下ったように(民数記1434)、今は主に愛された神さまのイスラエル、私たちにとって一日を一年と数えて計算し、通常七日問も開かれる婚宴が七年間にもなって楽しめるます。ただ、私たち花嫁は用意が必要なだけです。今、清くなるよう努力して純血を保ちましょう。イザヤ六五章一三から一六節では空中に挙げられた人々と残された人々を対比して書かれています。そこに出てくるクリスチャンの姿は「食べる、飲む、喜ぶ、喜び歌う」ですが、反対に地上に残された患難の人々には「飢える、渇く、恥を見る、叫び泣く…」と預言されており、これらの言葉もまた、宴会に使う言葉です。確かに空中の七年間の大宴会のような婚宴は、イエスさまと共にやって来るのです。

 

 出エジプトの際、全く災いにあわずに旅立ったヘブル人の家々と、数々の災いに会って国と共に滅んだエジプト人の家々のように、あるいは、ヨセフの時代に起きた七年間の大豊作と、七年間の大飢饉のように、空中に引き挙げられる私たちと、地上にそのまま残される人々は大きく違います。また、黙示録四章一節以降では使徒ヨハネヘの「ここに上れ。」と呼びかける御声に応答して教会も地上の七年患難時代から逃れて、天国の情景へと移されております。

 

「彼らは、大きな艱難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊(イエス)の血で洗って、白くしたのです。」(黙示録714