水浴した者

 

 

 

 あるの夕食の間のことです。弟子たちと食事を共にされたイエスさまは、席から立ち上がって上着を脱がれ、手ぬぐいをとって腰にまとわれてから、たらいに水をいっぱい入れて一人ひとり弟子たちの足をきれいに洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいでふきめられました。

 

 これは通常、主人が外から帰宅した時にその家で給仕するしもべがなすべき仕事です。ところがあの主であり、師であるイエスさまご自身が、畏れ多くも弟子たち人ひとりの汚れに満ちた汚い足に御手をつけるとは、弟子たちはイエスさまがなぜそうなさるのか全く理解出来ず、ただただ顔を見合わせながら当惑するばかりでした。そこでペテロの順が来た時、ペテロは思いきって質問しました。

 

「主よ、あなたが私の足を洗って下さるのですか」

 

 イエスさまはこれに答えて

 「わたしがしていることは今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります」

 

するとペテロは

 「決して私の足をお洗いにならないでください」

 

イエスさまは言われました。

 「もし私が洗わなければ、あなたは私と何の関係もありません」

 

するとペテロは

 「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください」

 

イエスさまはこの時、大切な教えを言われました。

  「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」(ヨハネ136-10

 

 イエスさまはここで弟子たちが互いに人を自分よりもまさった存在と考えて尊重し、赦し合い、仕え合うことの大切さを教訓され、加えてもう一つ大切な霊的教訓も宣言されました。水浴した者はすでに清いということです。一度イエスさまを信じて救われたクリスチャンは、すでに全身水浴した者のようにその霊魂はすでに清い状態です。ただ、汚れた足だけ洗う必要があるというのです。

 

中東社会は当時砂ぼこりの多い所をサンダルで歩きまわったため、その足は毎日汚れ、帰宅後、玄関にある水を張ったたらいで洗う必要がありました。足というのは目常生活での行動の基本です。

それゆえ「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません」とイエスさまが教訓されたこの意昧は、すでに救われたクリスチャンにとって、常生活の行動上、自然と足についてしまったような汚い罪のほこり、これだけを日々洗い清めれば良いことを教えられたのです。

 

 

 外から帰宅したら、まずイエスの血潮を讃美して罪の汚れを洗い清めることです。クリスチャンが救われて後、常生活の中で一度、罪を犯して失敗した行動があったとしても、それは行動上の足だけが汚れたのであって、清まるために初めからもう一度水のバプテスマを受け直して一からやり直す必要はないということです。それはペテロが「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください」とイエスさまに頼み、拒まれたのと同じことです。

 

 ただ汚れた部分の罪だけを告白して悔い改め、イエスの血潮で毎に洗われれば、すでにその人は全身清くなっている救われた神の子供です。一度救いを体験したクリスチャンはすでに全身清い人です。たとえどんなに大きな失敗をしても、転んでも倒れても清い神さまの子供であることは不変の真理です。倒れたら起きあがり、つまづいたら、もう一度立ち上がればいいように、罪を犯したら悔い改めて、イエスの血潮で汚れから清まればそれで良いのです。

 

イエスさまがへりくだって、私たちの罪の汚れを洗って下さるからです。玄関にある水の入ったたらいのように、天国では金のバケツがあって、その中のイエスの血潮が、すでに神さまの子供とされた私たちの罪の汚れを、永遠に至るまで洗い清め下さります。肉体の汚れは水で洗えば清まります。心の罪の汚れはイエスの血潮で洗えば完全に清まります。イエスの血潮日々、繰り返し讃美しましょう。たとえばこのようにです。

 

「♪ つみのけがれを、あらいきよむるは、イエス・キリストのちしおのほかなし。イエスのちしお、ほむべきかな、われをあらい、ゆきのごとくせり ♪」(聖歌四四七番)

 

 

 私たちが温泉に行くと、よく体を洗い場できれいに洗ってから浴槽に入る人と、体をよく洗わないままお湯だけ部分的にかけてすぐ浴槽に入ってくる人も見かけます。どちらも温泉気分を味わって帰りますが、事前に洗い場で体を真剣にこすって洗った人は、その後の温泉効果も良く、彼らは本当に綺麗な人です。

 

しかし、体を洗わなかった人には、依然きたない垢がくっついたままで浴槽に入るため公衆の迷惑であり、彼らはただ温泉という雰囲気味わって温まっただけの人です。教会でも、さまざまの人が集いますが、十字架のもとで悔い改めと感謝の祈りで、イエスの血潮をあがめる罪の垢から綺麗さっぱり清められた人と、悔い改めの祈りがなく依然、罪の汚れが付いたままの人もいます。いずれも教会という雰囲気味わって温まって帰りますが、血潮信仰を持つか否かは、教会効果ともいうべきその後の霊的成長と祝福に大きな影響を与えます。