鷲の羽

 

「ネブカデネザル王。あなたに告げる。国はあなたから取り去られた。あなたは人間の中から追い出され、野の獣とともに住み、牛のように草を食べ、こうして七つの時があなたの上を過ぎ、ついに、あなたは、いと高き方が人間の国を支配し、その国をみこころにかなうものにお与えになることを知るようになる。」(ダニエル43132

 

 さらにまた祈りながら聖書を学んでみると、ネブカデネザル王の患難体験に目が開け、この角度からも患難には残らないという確信が増しました。ネブカデネザル王は高慢になって自らの王国を誇ったため神さまの審判を受け、七つの時、患難に見舞われ、王位も理性も失い、人間の中から追放された荒野で獣のような生活をした王です。

 

七つの時という患難の期間、彼は野の獣と共に住み、牛のように草をモグモグ食べ、体はホームレスの野宿暮らしにより天の露に濡れ、髪の毛は床屋もない荒野で伸び放題、風呂もシャンプーもしないため、汚れてパサパサの枝毛に痛み、ついには野の草ばかり食べ続けたため栄養失調で茶褐色の鷲の羽のようになり、つめもつめ切りなく、伸びに伸びて鋭い鳥のつめのようになってしまったのです。しかし、愛と赦しの神さまはこのような理性を失ったネブカデネザル王をあわれんで、七つの時が過ぎるとかえりみていやされ、理性も威光も輝きも王位も取り戻し、以前にも増した大いなる者として繁栄を回復されました。

 

 今、全世界もまた、神さまを離れ、与えられた物質世界自体を誇る高慢の罪に毒されたためやがて審判され、七年間の患難時代という国難に投げ込まれようとしています。これを逃れる道は私たちの身代わりに患難をすでに体験されたイエスさま以外に天下に救いはないです。

 

救い主イエスさまは理性こそ失いませんでしたが、ネブカデネザル王と同じような患難を十字架上体験された王です。ネブカデネザル王が王位を剥奪され、人間の中から追放されたように、王の王であられるイエスさまは天国の栄光の王位を失ない、神さまに捨てられる激痛を体験されました。

 

「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ2746

 

永遠に真の王の王なるイエスさまは理性を正確に持った上で、これを体験し、わきまえ知ったため、その心の痛みはネブカデネザル王以上です。その時、十字架を中心にイエスさまはネブカデネザル王が七つの時、多くの野の獣と共に住んだことと同じような体験もされました。詩篇ではイエスさまの十字架を取り巻く大群衆について正確に預言されていました。

 

「数多い雄牛が、私を取り囲み、バシャンの強いものが、私を囲みました。彼らは私に向かって、その口を開きました。引き裂き、ほえたける獅子のように。」(詩篇221213

 

「犬どもが私を取り巻き、悪者どもの群が、私を取り巻き、私の手足を引き裂きました。」(詩篇2216

 

 ここでいう「数多い雄牛」とは角ある雄牛のように攻撃的で暴力と咎に満ちた、たくさんの勢力ある男たちの意昧であり、「バシャンの強いもの」とは、アモス四章一節で「バシャンの雌牛ども」とある通り、これは女たちの強いものの意昧です。ですから数多い男たちと女の強いものたちが十字架を取り囲み、吠えたける大声の出る獅子のように、イエスさまに向かって彼らは罵倒し、悪口雑言したというのです。さらに「犬ども」とは、釘打ち、手足を引き裂くローマ兵に加えて、罪状書き「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」(ヨハネ1919)が十字架の上にヘブル語、ラテン語、ギリシャ語で掲げられたため、これに関心を持って読んで理解してから迫害したユダヤ人だけでなく、通りすがりの外国人たちさえも十字架を取り巻いていたという意味であり、他に悪者どもの群れも、取り巻いてイエスさまの釘打たれた姿を心から、積極的に同意していたのです。

 

 イエスさまは人間の中から荒野のゴルゴダの丘、十字架刑へと追放され、群衆はそこで凶暴な獣となって彼を取り巻いたのです。イエスさまは、ただ祈られるばかりでした。

 

 「私のたましいを、剣から救い出して下さい。私のいのちを、犬の手から。私を救ってください。獅子の口から、野牛の角から。」(詩篇222021

 

 また、ネブカデネザル王が野の草を食べたように、イエスさまは呪われた物質的貧しさの体験もされました。エデン追放後のアダムがエデンの豊かな木の実から野の草を食するまで生活水準が落ちたように、イエスさまは豊かなエデン以上の天国から、この世に来られ、貧しさの呪いを体験されました。

 

イエスさまの地上における全生涯こそ、実に栄光の天国から比べる時、七つの患難時代そのものであったと言って過言ではありません。

 

 終末の世界を襲う七年患難時代のクライマックスの後半三年半が最もすさまじい、裁きと最後の大戦争を引き起こすように、イエスさまの三年半の公生涯の最後に最大の戦い、十字架が現われました。その時、イエスさまの御体は衣服をはぎ取られ、ネブカデネザル王同様、天の露に濡れ、その御頭には鋭いいばらの冠を押しつけられました。王の王なるイエスさまがいばらの冠により、額に深い傷を受け、目も開けられないほど血潮を流されたのです。その血潮は長い髪を濡らし、やがて血糊となって固まっては崩れ、ついにイエスさまの髪の毛は赤と混じり合った茶褐色のバサバサなネブカデネザル王同様の鷲の羽のようになったのです。

 

 そして、最後にはネブカデネザル王のつめが鳥のつめのようだったことと同様の体験もありました。イエスさまの両手のひらに打たれた釘は必ず正中神経を損なうため十字架上呼吸をしようともがく動きの一つ一つさえ両腕に激痛を起こし、両手はかたくにぎりしめる形になったはずです。

 

そこから血潮が流れ落ち、やがてこの激痛の極みなる死の際、こぶしは開いて指先には激しい力が入り、鳥のつめのように指を立てて、ちょうど鳥が獲物に襲いかかる時の手のような形になったはずです。人は肉体的激痛により命を落とす場合、特に死の間際、全身を最後の力が覆い、硬直してから息を引き取ることが多くあります。その際、老人よりも若者や筋肉質の体を持つ人ほど筋肉が反発して痛みもいや増し激しいものとなります。

 

イエスさまは元々、三十歳まで石工のような重労働の大工仕事に専念されたため体質的に筋肉質の体をもたれていたはずです。そのため三三歳の若さで十字架に付けられたその肉体的激痛は人として最大級であり、痛みのはけぐちを求める体の要求は大きな叫びとして現われました。

 

「イエスは大声で叫んで、言われた。『父よ、わが霊を御手にゆだねます。』こう言って、息を引き取られた。」(ルカ2346

 

 イエスの御手は最後の死にいたり、激痛にもだえ、まさに鳥のつめのように力が入った後、うなだれ、頭を垂れて息を引き取られたのです。その御手の形を想像できますか…。イエスさまはこうしてネブカデネザル王のような、いや、それ以上の激しい患難をすべて体験されたのです。

 

 それは審判です。栽かれた醜い姿であり、七年患難時代のようなものです。それは身代わりの壮絶な死の体験です。ですから、私たちは絶対地上に残されて同じ苦しみを体験する必要はないです。

七年患難時代は、残された罪ある人が苦しんで悟って、イエスさまを信じる悔い改めの最後の機会、神さまの愛のむちであり、決して救われた私たちのものではないのです。

 

ネブカデネザル王は七つの時を過ごした後、理性と威光と輝きと王位を取り戻しました。イエスさまは十字架の死という患難を体験された後三日目に復活され、昇天され、今、天の王国で以前にもました王位と威光と輝く栄光を取り戻して、大勝利されました。私たちは聖書に出てくるネブカデネザル王の記録を断片的にだけ見る時、七年患難にとどまる思想が生まれますが、これを私たちの身代わりに患難を通過されたイエスさまの十字架の血潮とかけあわせて見つめる時に、このような正しい悟りが開かれるのです。

 

「私たちは患難を受ける必要はない。イエス・キリストの十字架の身代わりの血潮のゆえに」

ですから、すべての真理を啓示し、天国を開く力ある偉大なイエスの血潮を永遠にほめたたえます!

 

 その結論がついた日の夜のことです。再び夢を見ました。今度は幸いな喜びの夢です。

日本がリバイバルしてたくさんのクリスチャンが見えます。しかも、空中にはまぶしく輝くイエスさまが雲に乗って下りて来られ、私たちは空中にまっすぐ引き上げられて空を飛んで集められています。本当にそれは気分が爽快であり、とても早い速度であちらこちらから、恐れもなく大喜びのうちに美しく引き寄せられています。地上はいつも通りの地球でした。しかし、私の上にも下にもたくさんのクリスチャンが空を飛んで空中へとまっすぐ非常に高い所まで上がっていくのです。その内の一人として私もこの上なき喜びに満ちて心の内に叫びました。

 

「一秒でも早く愛するイエスさまの所へ引き寄せられたい、うれしい!」

 

 それは、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きの内に雲に乗って来られたイエスさまの空中再臨です。キリストにある死者がまず始めによみがえり、次に私たちが彼らと一緒になって空中に引き上げられながら、栄光の新しい体へと変えられる大いなる喜びと栄光輝く、その日の預言的啓示でした。

 

 言葉にできない喜びに満ちて聖霊さまによって栄光に満ちて、胴あげされています。私はうれしくてうれしくて心の内に再び叫びました。「早くイエスさまの所ヘ!」すると、目覚め、私は聖霊さまに満たされて、主をほめたたえる言葉と異言が私の口から絶えませんでした。平安と物凄い喜びが心の奥底からあふれ出ました。

 

「イエスさまは来られる。七年空中婚宴の目的をもって」

 

 この悟りの内に、神さまが夢で確認の印を押して下さったのです。その後、祈りの内にある考えが来ました。クリスマスの日とは本来イエスさまの聖誕の聖なる日であり、神さまが人となったイエスさまがたたえられるべき誕生日なのに、今の時代は惑わしの霊によって神、イエスさまよりも肉の母マリヤばかりもっと強調して、イエスさまを母親がいないと何もできない力なき幼子に落としてしまい、救い主のイメージを狂わせて神さまの栄光を覆い隠している。この惑わしの霊はイエスさまの時代から今日までずっと世に働いているものであり(ルカ112728、エレミヤ718)、イエスさまの空中再臨の直前まであるものだ(黙示録222)。

 

 さらに最近はサンタや、クリスマスバーゲンセールやパーティーばかり前に出てきてこの日を惑わし、何の日か分からなくしてしまい、神さまの栄光の福音に覆いをかけているではないか。

今、サタンがそうしているならば、将来私たちクリスチャンが空中携挙されるキリストとの聖なる婚宴の日、どのように残された世人を欺くだろうか。

 

 「主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。」(第一テサロニケ52

 

 「家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。」(マタイ2443

 

 その日がいつであるか、父なる神さま以外は知らず、人々は誰も知りません。サタンも知りません。そのため、この世という家の主人サタンはおめおめと突然来られるイエスさま再臨の日、押し入られてしまうのです。イエスさまが泥棒のようにサタンの家なる世界へ押し入り、盗み返す者はご自身の宝の民、私たちクリスチャンです。

しかし、残された世の民にはこれが分からないのですから、残された世の民はクリスチャンたちの突然の失踪に驚き果て、不従順の子らを通してサタンは言うかもしれません。

 

 「クリスチャンたちの無責任な狂信的集団失踪事件!」

あるいは「未確認飛行物体UFOに乗った宇宙人による集団拉致事件!」

 

 今、サタンはクリスマスの日さえ真理をずらし、サンタやマリヤや世俗によって惑わしているのだから、その日、地上に残された人々が信じて救われないようイエスさまの誕生日ばかりか、ご婚宴の日である空中再臨という大切な福音の部分をも、再び覆い隠さないとは限りません。

 

 私たちの信仰は狂信的でもなく、UFOの宇宙人も実在しません。ただ第一の天、空を見、第二の天、宇宙を見、第三の天、神さまの国を見るのみです。福音にこれ以上覆いがかけられないように、今こそ大胆に伝道し、告白、宣言するべきです。

 

 「やがてイエスさまは雲に乗って、空から私と全クリスチャンを迎えに来られます!」と。

 

 こうしておけば万一、私たちの周囲に患難時代、残された人々があったとしても私たちの事実世を去った生きた証しによって、患難のただ中でも逆境の中で耳が開かれて救われる人々が出てくるかも知れません。私たちの遺産である聖書、聖歌、信仰の書籍、DVD、PCデーター、メッセージビデオなど用いられるかも知れません。

 

大事なことは反キリストが引き留められ、働きやすい今の時、光のある間に福音を語ることです。誰も働けない霊の夜、反キリストの来る前に今、聖霊さまと聖霊さまに満ちた指導者たちが共にこの世にいる恵みの日に救いを受け、訓練されて出て行き、福音のすべてを伝道することです。

 

「あなたがたに光(聖霊さま)がある間に、光(父なる神さま)の子どもとなるために、光(イエス

 さま)を信じなさい。」(ヨハネ1236