サムソンの

 

サムソンは、宮をささえている二本の中柱を、一本は右の手に、一本は左の手にかかえ、それに寄りかかった。そしてサムソンは、「ペリシテ人といっしょに死のう」と言って、力をこめて、それを引いた。すると、宮は、その中にいた領主たちと民全体との上に落ちた。こうしてサムソンが死ぬときに殺した者は、彼が生きている間に殺した者よりも多かった。(士師記162930

 

ペリシテ人の領主たちがダゴン神殿で祭りをしていた時、捕えた敵サムソンを余興の見世物にしようと牢から会衆前に呼出しました。は、男や女でいっぱい、ペリシテ人の領主たちもみなそこにいて、屋上にも約三千人の男女が集まっていました。かなり大きな吹き抜けのあるスタジアム建造物です。その時、サムソンは主に向かって最後の勇気を振り絞って祈りました。そして宮をささえている二本の中柱を、一本は右の手に、一本は左の手にかかえ、それに寄りかかって言いました。「ペリシテ人といっしょに死のう。」(士師記1630

 

この言葉を最後にサムソンは力をこめて、それを引くと瞬く間に宮は大崩壊し、その中にいた領主たちと民全体は下敷となってしまいました。恐るべきサムソンの怪力と欠陥住宅の末路です。ダゴン神殿は一見壮大に見えてもその実、中身はひどい欠陥住宅の典型で現代の建築工学では決してありえない建築法に引っ掛かる極めて幼稚なレベルの建築様式です。

 

たった二本の柱が屋上席のすべてを支えていましたが、通常なら仮に数本の柱が壊れても他の柱が屋上席を支えて建物全体が傾かないよう、柱ごとに力を分散した加重で造るのが常識ですが、ダゴン神殿は大変お粗末なシロモノで。建築法では地震を想定し、柱の太さや数、位置、窓ガラスにおいても光を取り入れやすい一方方向に片寄らず、建物の四方にバランスよく設ける規定があり地震の際建物全体がよじれて倒壊しない知恵です。しかし偶像崇拝にふける彼らペリシテ人は頭がぼんやりしてしまい、優れた英知から程遠い危険な死の地と死の影に集まっていたようで偶像崇拝はいつの時代も人を愚かでむなしいものにします。

 

 サムソンの聖書箇所は物語として読んでも面白いですが、霊的に解釈するとまた面白いです。イエス様はサムソンのように罪は犯されませんでしたが、サムソンの死に様からイエス様の死をも預言的に見いだせます。

 

サムソンは情欲の目で女を見、遊女と交わった結果、最後はその目がえぐりとられ、愛して離れなかった女で罠にはまって滅亡しました。

 

イエス様の場合は一生涯ひとつも罪がなく美しい心の目をもたれましたが、最後は十字架を前にその美しい御目は目隠しされて、暗黒の恐怖の中こぶしで強打されました。

 

本来ならば罪ある私たちの目こそ裁かれるはずだったのに。十字架ではいばらの冠を受け額からの出血のためここでも大きくを開けられなかったことでしょう。御手は釘付けられ、目からたれてくる血潮の一滴一滴さえ拭うこともできなかったのですから。

 

 次にサムソンの場合、足を悩ませたのは青銅の足かせです。このかせのため逃げられず、大きく足を開くことさえできずに行動が制約されました。

 

一方、イエス様は十字架上御足は犬釘と呼ばれる抜けないようにわざと錆びさせた細長い釘で打たれ、行動が制約されました。二人とも周囲を取り巻く大群衆のあざける悪者たちの見世物です。

一人は悪の枢軸ダゴン神殿のステージ上、人はどくろの地ゴルゴダのステージ上。

 

さらなる共通点は最後に死の間際、両手を広げて力をこめて引き寄せ、力の限り大声で叫んだことです。

 「ペシテ人といっしょに死のう」(士師記1630

 

 「父よ。わが霊を御手にゆだねます」(ルカ2346

 

その異なる言葉の二人は時代を超えて共通の姿勢で祈りながら命を引き取りました。両手を左右に大きく広げて上げ、開けられないと力の限り大声で叫びながら

 

このように神の栄光を現した彼らのもう一つの共通点。

 

 それはサムソンが怪力で偶像のを崩壊させた時、屋上席にいた敵のペリシテ人、約三千人もの男女がボタボなだれ落ちてきました。これこそイエス様の十字架で勝利をとられた際に起きた霊的次元での出来事と共通しています。イエス様は空中の権威を持つサタンの頭を打ち砕き、敵の要塞を全面崩壊させためにも来られました

 

イエス様の十字架死の瞬間、サタンの空中の権威は完全崩壊し、天から雷のように地上にボタボ投げ落とされました

 

 敵は一見壮大なダゴン神殿のように大きくきらびやかに見えても、その実、中身は、ち密な構造計算も堅固な支柱もないお粗末な欠陥住宅そのものです。聖書は、平和の神はすみやかにあなたがたの足元にサタンをふみくだいてくださると硬く約束しています。

あなたの足のサイズは何インチですか?二〇~センチでしょうか。サタンはせいぜい三センチ以下の私たちの足に直接踏みつけられるくらい非常に小さいミニサイズの存在です!

 

力のないすでに敗北した存在です!サタンを決して巨大な強敵だとは思わないでください。

サタンは地獄では大きいですが、この世では偽りの父で自分を大きく思わせてもその実、本当はとても小さい無力な小人です。一方、神様は天の天もお入れすることができない偉大なお方です。

その神様があなたの見方で、日々あなたを強め、あなたを助け、あなたを守ります。あなたが意識してもしなくても絶えずあなたとともにいる力強い助けてくださるお方です。強く雄々しく勇気を持ちましょう。聖霊様はあなたの助け主です。

 

ある家庭で母親が熱心なクリスチャンのため、二人の小さな息子たちを毎週教会に連れて行き、礼拝を捧げて信仰生活を忠実に守っていました。ところがあるとき、子供たちが母親に質問しました。

 

「お母さん。どうしてお父さんは僕たちと一緒に日曜日に教会に行かないの?」

 

母親はまだ救われていないお父さんの霊的事情を子供たちにうまく説明しようと軽率に答えました。

「それはね。お父さんに悪魔が入っているからなのよ。」

 

純粋で幼い子供たちはそのときからしっかり言われたことをストレートに信じて互いに会話するようになりました。

「そうなのだ。お父さんは悪魔なのだ。」

 

その後、お父さんに対する子供たちの態度が変わり始めました。お父さんが仕事を終えて家に帰ってくると二人はすぐに集まってはひそひそと話しました。

「来たぞ。悪魔が帰って来たぞ!」

 

お父さんが夕食をとっているときにも

「あれ、悪魔がご飯を食べているぞ!」

 

その後は入浴中にも二人は集まってこそこそと

「おい、悪魔がお風呂に入っているぞ!」

 

そして夜には

「悪魔が寝たぞ!」

 

また、あくる日にはお父さんが会社に出勤するのを確認しながらひそひそと

「よし、悪魔が出て行った!」

 

そんな生活が続く中、お父さんは子供たちの会話と異変に気づいて教会の牧師のところへどなり込みに来ました。

「先生!あなたは教会でいったい何を教えているのですか!私を家庭内ですっかり悪魔につくってしまって!」

 

牧師はひたすら平謝りでしたが、本当にクリスチャンは知恵を持って賢く振舞わなければなりません。

 

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ612

 

私がまだ小学生で小さかった頃、なぜか「日曜日に教会に行こう!」という思いが与えられ、小さなコンパスの足で一人テクテク歩いて一時間弱、ようやく教会にたどり着きました。

広い国道に面する好立地にかなり広大な敷地を持つ教会でしたが、門をくぐり、建物に入るとちょうど礼拝が終わり、解散中でした。教会員たちを送り出し、残されたスタッフのような人たちから

 

「僕!本当に一人で来たの?」         

           

と大変珍しがられました。そこで案内された教会学校の部屋を見渡すと沢山のおもちゃがあり、黒板には英語を教えた後が書かれていました。私は内心「やった!面白い遊び場を見つけた!」

と喜んでいると牧師のような人が来て大変申し訳なさそうに困った顔でこう言いました。

 

「僕、今日は本当によく来てくれたねえ。だけど本当に悪いけれど、この教会は今日で終わりだよ。来週からずっと遠くに引っ越してなくなってしまうのだよ。」

 

こうして福音については何も聞かされず、祈りも受けることなく帰されました。しかし、私はその牧師のような人の話を信じないで一週間後の日曜日に再び一人テクテク一時間弱、ニコニコしながらちゃんと教会にやって来ました。ところが入り口は閉ざされた門に鎖が無造作に巻かれ、教会堂の扉にも木の板が釘打たれ、完全閉鎖状態で閑散としていました。程なく物件は取り壊され福音とは無縁の建造物の数々が更地に建築されていきました。

 

こうして私の信仰歴は、たった一週間で終焉し、その後再び十六歳で別の教会に行き、十九歳で聖霊様のバプテスマを受けるまでずっと堕落していました。

 

日本人の多くがそうであるように私も福音を聞いたことは延べで十六年間一度もなく、実質都会の札幌で生まれ育ち、異端以外一度も伝道されませんでした。日本に聖霊様に満ちた愛の伝道者が多く立ち上がりますよう祈ります。

 

その数年後、小学生の私が教会にとって代わる新たな遊び場のひとつに近所の神社を発見しました。森の中を入っていくと小さな池があり、その横には狐を祭る偶像の祭壇と火の神と呼ばれる岩場をくり抜いた小さな洞窟のような祭壇がありました。そこから当時、私は遊ぶ金欲しさに、友達とさい銭泥棒していました。誰もいない環境に加え子供の手でも柵の下におもいっきり伸ばせば楽に小銭が盗れました。しかしひとつの摩訶不思議がありました。

 

火の神という偶像からさい銭を盗むと、いつも何処からともなく火の気もないのに焦げ臭いにおいがしてきました。何回実験してもそうです。

 

 そこである日、なぜか私が代表になって友人五人くらいを連れて現場に行き、その旨を説明した上で、下から手を伸ばしてさい銭を実際に実験の為に盗って見せました。すると確かにその瞬間何処からともなくあの焦げ臭いにおいが火の気もないのに、すっとしてきました。半信半疑だった友人たちもびっくりしながら

「本当だ!焦げ臭い!泉の言った通りだ!」と叫びつつ恐ろしくなってその場からいっせいに逃げ去りました。

 

私は内心、私の言った通りになった満足感から誇らしげな思いで恐れつつも喜んで逃げ去りました。今考えても確かにあそこは悪魔が強く働く場所でした。

 

しばらくした後、私は新たな思いで別の五人くらいのお友達を連れて現場に帰って来ました。今回の目的は実験ではなく、ゲームゼンターに行く資金調達のためでした。なぜかここでも私がリーダーになって盗み方を説明して実践していましたが、狐の偶像を祭る祭壇の前では簡単な火の神とは構造が違い、上からさい銭を入れて中に落ち込んでいく構造の為、どんなに手を入れても下まで届かず、うまくお金が盗れません。そこで悩みぬいた末に私は発見しました。

 

「あっ!左下にお金がたまる鉄の扉がある!これをこじ開ければ、ぜんぶ回収できるぞ!」

 

そこで鉄製の扉を開けようと爆竹花火を数本取り出し扉の隙間にはさんで点火しました。

 

「バンバンバン

 

わずかな火薬同様やはり小学生のわずかな英知では、こじ開けるには及びません。そこで今度は数本ではなく一束全部をはさんで再度、点火しました。

 

「ババババーーー…」

 

しかし爆音とけむりが消え去ったとき目にしたものは、依然閉ざされたままの白く焦げた鉄の扉でした。

 

 「はたしてどうしたらよいものか」その時、小さな石を発見しました!

 「これだ!」今度は石をもってガンガンたたきました。しかし鉄は石よりもっと硬いものです。するとお友達の一人でお父さんがヤクザをやっているK君が「これならいけるぞ!」とか言いながら大きな石を拾ってきました。そして力の限り彼が数回打つとなんと!

 

「ドカボロボロボロ・・・」

 

少しのけむりの後、鉄の扉は依然鍵がついたまま閉じていましたが、その場に鉄の枠ごと倒れていました。それはそのさらに周りの加工されたコンクリートの壁の全体部分が大きく崩壊して大きな穴が開いたからです。

 

「やったあ!」

 

熱心にさい銭すべてをかき集め一目散に逃げ去りましたが、その後、数えてみると小銭ばかりで千数百円でした。これなら破壊された偶像の祭壇の修理費のほうがずっと高くつくなあと思いました。それから後のことです。なんと、この事件はそこで終わらない悪魔からの緻密に計算された復讐劇が始まりました!

 

私がある日、公園で遊んでいるとその近くの空き地に変なバスを発見しました。

 

「おいみんな!変なバスがあるぞ!行って見よう。」

 

それは真っ黒塗りの前面も側面も金網が張りめぐらされ、白い漢字で何か大きく書いている本当に変な一番大きなサイズのバスでした。それは少し怖いおじさんたちが使う大音響でスピーカーを鳴らしながら動くあの右翼の宣伝カーでした!しかし、当時私は小学生。常識も良識も怖いものもなしです。

 

「よし!のぼってみようぜ!」

 

メンバーは六人いたと思いますが、なぜか私が先頭きってみんなでバスの屋根の上によじ登りました。登頂すると清々しくたいした見晴らしがよかったのを覚えています。そして屋根の上をまじめに散歩していると足元に変なものを見つけました。

 

「おい!変だぞ!このバス、煙突がついている。」

 

それはおそらく脱税目的でキャンピングカーか宣伝カーか事務室使用で登録されたバスの為、大きなバスの室内に事務所があり、そこにストーブが設置された内部構造でしたが、その室内からまっすぐ煙突が屋根の後方、中央付近に天上を通過して屋外に突き出ていたのです。煙突と言ったら、けむり、けむりと言ったら火、火と言ったら花火です。なぜかリンクするそんな幼稚な発想のなか、私たちは爆竹花火をカバンから取り出してさっそくその煙突に一束火をつけて入れてみました。

 

「ババババーーー」

 

しばしのけむりの後です。死んでいた煙突に息を吹き込んだかのような不思議なしんきろうのようなものを私が見つけました。

 

「今、煙突から湯気が出ている・・・」

 

「本当だ・・・」

 

実は季節は夏、そのバスの車内に使われていたストーブは外されており、よくあることですが、代わりに煙突の車内最先端部には虫やホコリが入らないよう古新聞が詰め込まれていたのです。その乾燥しきった古新聞が先ほどの「ババババ・・・」の飛び火を受けて燃え出してしまったのです。燃えながら古新聞はスッと車内に落下し、真下のじゅうたんがあっという間に燃えました。

 

「しまった!大変だ!消防士を呼べ!」

 

笑い合いながら数本の細いホースで自然の消火活動をしましたが、小学生数本のホースと水量ではこれが足りず消えません。

 

「大変だぞ!もっと出ないか!まじめにやれ!」

 

「だめだ!俺も空だ!」

 

「俺も・・・」

 

急いでバスを飛び降り、外から眺めていると、赤いじゅうたんが床一面に引きつめていましたが、バスは車内から赤々と燃え広がりました。さすがにまいった私たちは近所のマンションに飛び込んで言いました。

 

「火事です!消防車を呼んでください!私たちでは消せません!」

 

「分かりました。救急車も呼びますか?」

 

思わず私は「はい!そうしてください。」

 

それからしばしの後、けたたましい消防車のサイレンと不要だった救急車のサイレンのミックスする中、群集が現場に集まり始め騒々しくなりました。ところが駆けつけた消防署員が本物のホース片手に消火活動をしようとしても、これが出来ません。

 

なぜなら右翼のバスは戦闘用に?か、防御用に?か、知りませんが、悲しいことに窓枠全体に金網が前にも後ろにも横にも張り巡らされているではありませんか!これには通常、窓を突き破って勇敢に突入する消防署員もお手上げです。加えて相手は右翼団体の大型装甲バスです。勝手に破壊突破したら後の責任が怖いです。一方、車内は真夏に床一面のじゅうたんという格好の燃焼物を捕えた為、火の気は治まりません。

 

「もうだめだ!」

誰もがそう思ったその時に、サイレンの音で駆けつけた野次馬になった右翼のおじさんが自分のバス炎上を目の当たりにしてびっくりしながら急いで何処からか鍵を持ってきて鉄の扉入り口を開けました。

 

その後は太い本物のホースを持った消防署員の勇敢な突入!難なく火は消されました。その後、私たちは消防署員から始まり関係ない救急車、小学校の先生や親たち・・・とにかく四方八方から怒られました。しかし誰もが口にしない、口に出来ない共通の認識が内心ありました。

 

「あれは、火の神のたたりだな。・・・」

 

右翼は金持ちでした。主犯格が小学生ということもあって一切燃えた数々の賠償請求もなく、右翼のおじさんに罪許されて釈放で一件落着。それ以降しばらくは火を見るだけでも怖いという状態が続きましたが、周囲からは右翼のバスを放火した勇敢な小学生ということで少し有名人でした。

 

私たちは悪魔と戦うべきであって、偶像自体や怖い圧力団体のおじさんたちや世の中の政治的・社会的矛盾と真っ向から戦ってはなりません。さい銭泥棒になってもいけません。

戦うべき相手は悪魔であって戦場は私たちの心です。悪魔に機会を決して与えないよう心を引き締めてイエス様の血潮で武装しましょう。