バラクとバラム

 

 あなたは神さまの目に高価で貴い存在、愛されている十字架の軍隊の一人です。民数記二二章では、このような十字架の形で一致団結して宿営、行進を繰り返すイスラエル人に対して、モアブの王バラクが大いなる恐れを抱き、よこしまで心定まらない預言者バラムを厚いもてなしで雇い、イスラエルを呪ってくれるよう要請しした。

 

今日も、私たちすべての教会が一致団結して十字架を現わすと、サタンは恐れおののくのです。バラク王に誘惑された預言者バラムが祈るとはっきり主は言われました。

 

「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。またその民を呪ってもいけない。その民は祝福されているからだ。」(民数記2212

 

 しかし、預言者バラムは命をかけても、この御言葉に従い、主と同じ心になってイスラエルを祝福し、呪わないことを決心すべきだったのに、あいまいにバラク王の使者を招き入れて泊まらせ、自分に都合の良い、他の御旨を求めはじめたのです。

 

 そのため、一度主にあって語られた御言葉を信じず、バラク王からもらえる不義の報酬を愛した、かたくなな預言者バラムに対して今度は主が「行け」と命じられたのです。それは主の道とは反対の道です。ちょうど主がエレミヤを通して敬虔なレカブ人の家で、葡萄酒を満たした壷と杯とを差し出して、彼らに「飲みなさい。」と言うと、彼らの固い決意と信仰が現われ、「私たちは全家をあげて、一生葡萄酒を飲まず、葡萄畑も、種さえも持たない」と立派に告白したように(エレミヤ三五・6)、預言者バラムもそうあるべきだったのです。

 

 ところが預言者バラムの場合、翌日起きると、白分のロバに鞍をつけて準備し、バラク王の使者たちと一緒になって出発進行してしまったのです。これを聖は預言者バラムの気違いざたと呼んでいます(第二ペテロ216)。

 

本当は預言者バラムはへりくだって、こう告白すべきだったのです。

「主よ、私は行くことができません。まがりなりにも、主の預言者が彼らと共に行くならば、あなたの敵にあなどりの心を与える機会となり、神のイスラエルをうかがうことは、主を試みることにもなります。悔い改めます。私は絶対行けません」

 

 しかし御旨と反対の道を進み行くかたくなな預言者バラムであったため当然、試練が降りかかりました。抜き身の剣を手に持つ主の使いが道に立ちふさがり、預言者バラムを殺そうとしたのです。惨めな預言者バラムは、この時ロバに救われました。ものを言うことのないロバが突然人間の声でものを言い始め、生涯主人に従順だったロバの生涯から、いまだ不従順な預言者バラムは生きた教訓を受け、その気違いざたを悔い改めさせられたのです。

 

 その後、主の使いに出会い、悔い改めたバラムは真の神さまよりの預言だけを語る決心をしました。こうして翌日のこと、一度目バラク王は預言者バラムを連れ出し、イスラエルの民を呪ってもらおうと期待しながら見晴らしの良い高い場所バモテ・バアルに上がらせました。預言者バラムはそこからイスラエルの宿営の一部だけを見ることができたのです。もともとそこから宿営しているイスラエルの民を呪ってもらうため雇われた預言者バラムでしたが、悔い改めた預言者バラムは、反対にそこで主からの祝福のメッセージだけを啓示されたため忠実にこれを宣言しました。

「神が呪わない者を、私がどうして呪えようか。主が滅びを宣言されない者に、私がどうして滅びを宣言できようか(民数記238

 

 こうしてイスラエルの民を呪うことに失敗したバラク王は、これを聞いてもあきらめることなく代わりに、二度目、他の場所へ預言者バラムを連れ出しました。他の場所からなら今度こそイスラエルの民を呪うことに成功できるとバラク王は考えたからです。そこも見晴らしの良い高い場所、ピスガの頂です。彼らが頂きに登って見下ろすと、そこからイスラエルの宿営全体は見えず、ただ一部分だけが見えていました。しかし、ここでも預言者バラムが再び主に祈ると主から啓示された神さまからの忠実な御言葉は「見よ。祝福せよ、との命を私は受けた。神は祝福される。私はそれをくつがえすことは出来ない」(民数記2320)と、呪いではなく再び祝福そのもののメッセージでした

 

こうして二度目も作戦失敗したバラク王でしたが、執拗にあきらめず何とかイスラエルを呪ってもらえないものかと思いながら今度は、ついに三度目もう一つ別の高い場所、ペオルの頂上に預言者バラムを連れ出しました。そこからなら、イスラエルを呪えるかもしれないと思ったからです。そこからは荒野に宿営するイスラエル人の全体が見下ろせる絶好の場所です。しかし三度目、預言者バラムが目を上げてイスラエルの十字架の宿営地すべてを眺めたその時、神さまの霊が彼の上に臨んで主からの祝福のメッセージを預言し始めたのです。真に十字架の全体像を見つめるその時、聖霊さまは注がれ預言するものです。バラムは目が開かれて預言しました。

 

「なんと美しいことよ。ヤコブよ、あなたの天幕は。イスラエルよ、あなたの住まいは。」

(民数記245

 

「あなたを祝福する者は祝福され、あなたを呪う者は呪われる!」(民数記249

 

これが十字架による呪いを祝福に変える力です。十字架は本当に目が開かれてみると、驚嘆するほど美しいものです。サタンがバモテ・バアルの上から呪い、ピスガの頂から呪い、ペオルの頂上からおうと攻撃してきても、十字架の下に身を寄せる私たち神のイスラエルには、一切いはかからずに、ただそこには呪いの反作用、祝福だけがあるのです。ハレルヤ。

 

も空中の権威を持つサタンが私たちの高き所なる頭の考えを通して一度目、肉の欲で挑戦してきならば、イエスさまの十字架の血潮に身を寄せ勝利しましょう。

二度目、別な角度、目の欲で挑戦してきたとしてもイエスさまの十字架の血潮で変わらず打ち勝てます。三度目に暮らし向きの自慢で誘惑してきたとしても、イエスさまの十字架の血潮により完全勝利できるのです。すでにイエス・キリストは勝利されたのです(マタイ四章)。今は祝福あるのみです。

 

「彼らは呪いましょう。しかし、あなたは祝福して下さいます。」(詩篇10928

 

民教記二八章の祝福のリストには真の祝福とは、物質的豊かさも含まれています。

使徒パウロはこう言いました。

「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたがキリストの貧しさによって富む者となるためです。」(第一リント89

 

貧困は神の御旨ではありません。イエスさは元々人工だったにもかかわらず、枕する家もなく、女たちの献金で生活(ルカ83、詩篇6811)する物質的な貧しさを通られたのは、私たちが物質的豊かさを受けるめの身代わりです。

 

神との忠実な契約、エデンの善悪のの実のような什一献金を神のものとしてをつけず、自分の教会に捧げ、祝福された富む者となりましょう(マラキ310)。

受けるよりも、与える幸いな人になりましょう。

そのためにもイエスさまはいばらの冠を受けて、十字架ので血潮を流されたのです。