心のいやし アガペの愛

 

 イエスの血潮は、私たちの霊のみならず精神もいやしてくださいます。ストレスの多い現代社会、肉体の病の六〇から八〇%はストレスが原因です。心のいやしが必要です。

 

 人間は誰でも外面に見える風貌「外なる人」を持つように「内なる人」をも持っています。外なる人が、がっちりと強そうに見えても、内なる人が案外弱い人もあり、外なる人が弱々しく見えても内なる人が心底強い人もあります。

 

人は人生の試練にぶつかり問題が起きるとその人の本当の姿、内なる人が見えてきます。そんな意昧でもこの内なる人こそ本当の自分自身ということができます。聖書はこれについて「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により力を持って、あなた方の内なる人を強くして下さいますように」(エペソ316)とあります。

 

 人は誰でも無意識のうちに心の奥底にあって働く自我意識の活勤、すなわち潜在意識があり、今日の実生活に良かれ悪しかれ影響を与えて生きています。もしも、この内なる人が傷つき病んで血を流して倒れていたらどうなることでしょう。たとえどんなに優れた豊かさの中にあっても、その人は不幸です。

 

「人の心は病苦をも忍ぶ。しかし、ひしがれた心に誰が耐えるだろうか」(蔵言1814)と聖書がいうように、内なる人の病は肉体の病以上に深刻です。

 

ルカによる福音書一〇章三三節では強盗どもに襲われて倒れている旅人に対して、よきサマリヤ人が応急処置の薬として、旅人の傷口にオリーブ油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行きました。イエスさまは悪霊どもに襲われて、人生の旅路に倒れていた私たちを哀れんでよき隣人となって、心の傷口に、聖霊さまの油注ぎと喜びある血潮の福音、そして結びの帯として完全な愛で包み、宿屋なる教会へと導いてくださいました。その真実な犠牲の伴なった愛こそが私たちの心をいやすアガペの愛です。

 

 新約聖書を調べると、聖霊さまを受ける前のペテロは内なる人に大きな傷を受けた人でした。それは、愛するイエスさまを三回も裏切ったことによる深い心の痛みによるものです。

「あなたは今日、今夜鶏が二度なく前に私を知らないと三度言います。」(マルコ1430

 

 事前にそうならないようにと警告の伴ったイエスさまの預言がみごとに成就しました。その夜ペテロは大祭司の庭の中、役人たちと一緒に座って焚き火に当たりつつ、イエスを知らないと一度目裏切りを告白し、出口の所でもイエスを知らないと二度目の裏切りを告白し、三度目はエスカレートして漁師たちの使う呪いの誓いをしながらイエスを知らないと完全な裏切りを不信仰告白すると、その時すぐに通常、昼間鳴くはずの鶏の声が珍しく夜中に二回続いて鳴り響きました。「コッケコッコー、コッケコッコー」その瞬間ペテロはイエスさまの預言の御言葉を思い出して、我に返り、本当に悲しくなって激しく泣きだしました。

 

この日からペテロは鶏ノイローゼになったことでしょう。鶏はペテロにとって裏切りの象微となりました。朝ごとに明るくなるとちっぽけな鶏の目覚ましの声「コッケコッコー」にドキッと大きく驚かされ、心臓の高鳴りを覚えつつ、お目覚め悪く一日うつろ、漁に出て行き祝福されず不漁に疲れ果てて帰宅した夕方には食卓にのぼった奥さん特製のチキンを前にため息ついて考え込み落ち込むペテロ。

 

「ああ、私はこの鶏の二度鳴くまでに三度もイエスさまを裏切り、十字架に追いやってしまったのだ……」

 

 そんな惨めな思いに日々悩まされる憂うつなペテロに対して愛と赦しの神イエスさまは彼をいやそうと、復活後のある朝、テベリヤ湖畔にたたれました。ペテロは復活の主を発見し、喜びのあまり頭が回ってしまい、なぜか上着をまとってわざわざ重く泳ぎにくい状態になってから湖に飛び込んで百メートル自由型全力遊泳して、陸地にはい上がると、そこに炭火とその上に乗せた魚とパンを発見しました。

 

他の弟子たちは冷静にとれた魚をしっかり船に乗せたまま楽に漕いで湖畔まで到着しました。そこでイエスさまの準備された魚とパンは夜通し働いた空腹な弟子たちをいやす大きな慰めでした。

 

今日もイエスさまが臨まれる時、過ちを犯す私たちにムチで打って、厳しい刑罰で懲らしめてから心を変えさせるよりむしろ、まず恵みを与えて豊かに食べさせ飲ませて喜びと祝福で心いっぱい満たしてくださってから、自らの過ちを自然のうちに悟らせて心を変えさせることが多くあります。

 

これは心理学的にも人を更正させるのに、最も良い治療法です。私たちもイエスさまに習って子供たちや愛する人を更正させるのにムチ打つよりまず、愛して受け入れ、祝福で満たしてあげてから、心を開かせて悟らせるのが最も効果的です。

 朝食をすっかり済ませて、満腹で心地よくなったご機嫌のペテロに、イエスさまは暖かく質問されました。

 

 「ヨハネの子シモン、あなたはこの人たち以上に、私を神のアガペの愛で愛しますか」

 

ペテロは難なく一度目答えました。

 「はい。主よ、私があなたをフィレオの愛でお友達として愛することはあなたがご存じです」

 

イエスさまは言われました。

 「私の小羊を飼いなさい」

 

 その後、ほどなく再びイエスさまは同じ質問をされました。

 「ヨハネの子シモン、あなたは私を神のアガペの愛で愛しますか」

 

 ペテロは自分の耳を疑いました。「あれ?さっきもイエスさまは同じ質問をされたのでは…」

 そう心に思いながらも素直なペテロは笞えました。

 

 「はい主よ、私があなたをフィレオの愛でお友達として愛することはあなたがご存じです」

 

イエスさまは言われました。「私の羊を牧しなさい。」

 

 その後、イエスさまから再び第三回目の同じ質問が悟りなきペテロにあわせて臨みました。

 「ヨハネの子シモン、あなたは私をフィレオの愛でお友達として愛しますか」

 

ペテロはここで三度の同じ質問にさすがに気がついて

「私はイエスさまからそんなに信用されていないのか、あるいはこれはいじめなのか……」などと心につぶやきながら小さい心を痛めつつ告白しました。

 

 「主よ、あなたは一切のことをご存じです。あなたは私があなたをフィレオの愛でお友達として愛することを知っておいでになります」

 

 ここでなぜイエスさまは三度も同じ質問を繰り返しペテロに対してなされたのでしょうか。一度だけでは足りないのでしょうか。なぜ三度も愛の告白を要求されたのでしょうか。

 

それは、かつて大祭司の庭で役人たちと焚き火を囲みつつ三度、イエスを裏切る告白をした病めるペテロの心の傷を完全にいやすためだったのです。三度もイエスさまを知らない、知らない、知らない、と告白してすっかり右に曲がってしまったペテロの偽りの口を、今度はイエスさまを愛する、愛する、愛する、と三度正反対に告白させることにより、左にすっかり曲げて正常な位置に戻していやすためだったのです。イエスさまはわざわざペテロのために、裏切りの当時と同じような環境を再現して臨まれたのです。

 

当時、ペテロが悪者の役人たちと焚き火を囲んで恐れながら冷たい雰囲気で座っていたその日の正反対、今度はイエスさまの愛する弟子たちと共に、焚き火を囲んで暖かい雰囲気でニコニコしながら手にはちゃんとペテロの魚とパンを持たせて座らせ、環境的にも霊的にも夜だったその日の正反対、今度は復活後の朝にいやし主イエスさまは臨まれたのです。

 

心のいやしは今日の教会にも重要な課題です。もしイエスさまがペテロの引き裂かれた心を放置したままこのようにいやされなかったならばその後、初代教会の重要な柱である使徒ペテロは決して誕生しなかったでしょう。しかしペテロは完全にいやされたからこそどんな鶏をも恐れずに強く雄雄しく大胆に説教して、リバイバルを導けるように変えられたのです。ペテロは三度目、心に痛みを感じつつもイエスさまへの愛の告白を要求されました。

 

 今日も私たちが内なる人のいやしの祈りをするとき始めはむしろ心の痛みが伴うことがあります。内なる傷ついた本当の自分自身を取り扱うことは痛みです。最も触れたくない所へメスを入れるのです。しかし、どうしてもこの作業が必要です。

 

私たちの心の傷を根本的にいやす力はただ、神さまのアガペの無条件の犠牲愛、その生きた証し、十字架で注がれたイエスの血潮を心の傷口に注ぐしかありません。