契約の箱に注がれた血2

 

ここで、再びパレスチナ問題を再燃させ、中東和平交渉を複雑困難にしてしまう、イスラエル政府があえて明らかに情報を一般公開しなかった機密扱いの報告があります。

 

 考古学者であり、探検家でもあるロン・ワイアットの報告です。一九八二年一月にイエス傑刑の場で知られる、崖のかたちがどくろの顔をしたゴルゴダ丘の地表下にある二千年前のローマ時代の地層から、岩床に三つの並行して並ぶ、十字架の木を立ててから固定の杭が打ち込まれるための四角い掘り下げた十字架穴と、すこし後ろの中央の崖面からニメートル五〇センチ突き出した一〇センチ高くなった岩棚にもう一つの十字架穴を発見し、イエスさまの墓のふたとして使われ、復活の際、消え失せた丸く大きな封印石をも発掘したといいます。

 

左右の十字架に強盗人たちが十字架につけられ、少し後方中央の約一〇センチ高くなった最も目立つ場所にイエスさまがつけられたと考えられます。木と土の文化の日本とは異なり、石と砂の文化のイスラエルでは深く深く掘り下げて土砂を取り去ることにより、多くの考古学的遺産がそのまま朽ちることなく爪あとを残していることが多くあります。イスラエルではイエスさまが十字架を背負って直接歩まれた当時のビア・ドロローサの旧道とそれに連なる旧市街地の一部も地下で発見されて発掘が続いたこともあります。

 

さらに驚くべきことは、この十字架を立てた穴のうち、中央のイエスさまがつけられた十字架を立てる掘り下げた柱穴は幅、三二・五センチ×三五センチ、深さは五八センチであり、ちょうどそこから始まって、左真下に大きな地震の際に生じた深く大きな天然のさく裂があり、その約六メートル下方の地下には小さな洞窟があり、そこに隠されていた契約の箱を発見したというのです。

 

しかも、それがイエスの十字架のまっすぐ真下に位置していたのです。世界が探している契約の箱が、何とエルサレムの郊外ゴルゴダ丘の十字架の真下の洞窟に隠されていたのです。

 

しかし、その後、この歴史的大発見がその地を支配するイスラム教徒と聖都奪還を強行的にでも願う多くのユダヤ教徒右翼派の間で対立を確実に激化させる大変な戦争の起爆剤になることを知ったネタニヤフ首相が中東和平実現の政治的目的から、発掘も立ち入りも全面凍結してしまい、現在もそのままそこに埋め戻されてイスラエル政府当局の機密扱いのまま眠っているのです。

 

(本誌三章冒頭で私が計算した十字架の地上高は最大約五メートルでした。ここにロン・ワイアット発掘の十字架を立てる掘り下げた柱穴の深さ五八センチを足すと、十字架の縦の木は全長五メートル五八センチ位はあったことになります。大工の世界で換算すると約一八尺の角材です。)

 

 実際、政府が一度この契約の箱発見のニュースを実験的に流して第三神殿建設の可能性を公示して反応を調べた結果、一九九〇年一〇月八日にシオンの丘大虐殺と呼ばれるユダヤ人とアラブ人の間に民族大暴動を引き起こし多数の死傷者を出すという苦い経験もありました。

 

 ここでロン氏が一般公開した証拠写真を説明します。

 

15はよく知られた観光名所のゴードンのカルバリと呼ばれるイエスさまが十字架に付けられた場所のちょうど真上に位置する岩棚です。当時のローマ軍の支配権誇示と政府反逆者への見せしめ目的の処刑場としてここはまさに演出効果絶大などくろの面の真下ということで人通りも多い地方を結ぶ道ばたの群衆の最も注目されやすい目立つ場所があえて選ばれていたのです。

 

確かに、丘の上で何もない空を背景に十字架が立てられている映画や聖画のイメージが強いですが、実際の聖書には十字架の地に関して何もない丘の上とは一切言及されておらず、ただルカによる福音書二三章三三節では『「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。』と証言されており、岩肌がどくろの面のように削られている岩棚に沿って真下を掘り進んだ結果、実際に十字架穴とさらに真下の契約の箱が発見されたのです。

 

 そして図16はロン自身が立つどくろの面の真下に位置する岩棚で発見された三つの加工された罪状書きを置くための岩棚の写真です。そしてこの写真を見ると十字架の上に張られた罪状書き「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」に対する通常の私たちのイメージとはかなり異なることと思います。聖書ではルカによる福音書二三章三八節で『「これはユダヤ人の王。」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。』とあり、他の福音書でも「十字架の上に掲げた」と証言しますが、ギリシャ語の原語ではこの「頭上」や「上」という言葉に「エピ」が使われており、その意昧はこの場合文宇どおりの「上」よりは「上方」と訳するほうがもっとふさわしい言葉です。罪状書きはイエスさまお一人の十字架の上方の岩棚でしかもこんなに大きくヘブル語、ラテン語、ギリシャ語で別々に三枚も石膏で固めた大きな罪状書きを使って黒いパビルス製の文字で書き込まれていたのです。

 

罪状書きとはあくまで通行人に広く掲示するための見せしめ目的で掲げられた看板です。もし一枚の紙に三カ国語の文字が書かれて十字架の木の上に直接張ってあったのであれば近くの通行人さえ字が小さくてなかなかよく読めません。大きく書いて人々の前で大胆に掲げる見せしめのため、このような岩棚に大きく加工した罪状書きのスペースが必要だったのです。

 

 そこからさらに深く堀り進めて二千年前のローマ時代の地表である岩地の大地にまで到達した十字架周辺の全容を真横から手書きしたものが図17です。発掘作業の際この同じ地層の現場では、紀元一四年から三七年までのテベリウスの治世に使われていたローマ貨幣も一緒に発見されています。

 

 中でも注目は一番奥まった他の受刑者たちよりも約一〇センチ高くなった中央の最も目立つ岩床のステージ上に発見された一つの十字架穴です。この穴こそ左に向かって広がる大きな天然のさく裂が入っており、強盗人たちを前方の左右に位置してイエスさまの十字架が立てられた中央の奥まった最も目立つ場所です。

 

 そしてこれらの現場を真上から見下ろすように手書きしたものが図18です。

 

遅くとも紀元七十年以降にはすでに十字架刑の執行がローマから全面廃止されたため、使われなくなったこの場所で一世紀頃の初代教会の信者たちが集まって、イエスさまの十字架跡地を記念に壁で囲う形で教会の建物をここに建てて礼拝を捧げていたようです。

 

18の太枠の囲まれた線がその建物があったという遺跡の見取り図であり、正面中央の丸いものは「あれほど大きな石」(マルコ164)と書かれた、直径四メートルセンチもある一度はイエスさまの墓で封印目的で使われた、もともと金持ちで有力な議員ヨセフ用に準備された、一等墓地にふさわしい通常サイズの二倍はある大きな封印岩です。これはイエスさまが復活されたため必要がなくなった空の墓から、入り口のとびらとして置かれていたものを復活の象徴として当時の信者たちがごろごろ転がしてか近くの十字架のどくろの地まで運んできて確かな遺品のように納めていたようです。

 

このようなことは、今でもイスラエルで二千年前にイエスさまが直接通られた跡地にはその聖誕の地から始まってすべての場所に、何らかの記念の意昧を持つ教会が当時の岩肌を残した状態で建てられていることを考えると同様であり、充分理解できることです。

 

詩篇六五篇十一節には「あなたは、その年に、御恵みの冠をかぶらせ、あなたの通られた跡にはあぶらがしたたっています。」と書かれており、イエスさまの通られた二千年前の跡地には今日でも聖霊さまの油注ぎで教会が多く建設されています。