リベカ

 

また呪いは民族だけでなく、個人にも降りかかることがあります。母リベカは愛する我が子ヤコブのために、兄エサウの長子の権利をだまし取るよう計画時、迷うヤコブを勇気づけて告白しました。

「我が子よ。あなたの呪いは私が受けます」そう告白したリベカは、後に本当に呪いを受けました。

創世記二七章四六節では、その後の同じリベカが、夫イサクに告白しています。

「私はヘテ人の娘たちのことで、生きているのがいやになりました。」

 

 リベカは人間関係により苦しめられ、死にたいほどの呪いを体験したのです。さらに愛する我が子ヤコブとは二〇年間も離ればなれの生活となり、生涯息子に再会することなく、その間にリベカは死にました。

 

 蔵言一八章二節にある通り、「死と生は舌に支配される」のであり、うっかり誤ったの告白や行ないにより、呪いを受けないように注意が必要です。

 

他にエレミヤ書一七章五節では「人に信頼し、肉を分の腕とし、心が主から離れる者は呪われよ」と記されており、ゼカリヤ書五章三節には全地の面に出ていく呪いの巻物があり、盗人と主の御名により、偽る者の家に入り、その家の真ん中から梁と石と共に滅ぼすとあります。律法の呪いが現実にあるのです。

 

新約のテモテ人への第一の手紙一章九節では、さらにこれについてこうあります。

「律法は、しい人のためにあるのではなく、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人、汚らわしい俗物、父や母を殺す者、人を殺す者、不品行な者、男色をする者、人を誘拐する者、嘘をつく者、偽証する者などのため、またそのほか健全な教えに背く事のためにあるのです。」

 

 使徒パウロはこう宣言しました。

「主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。」(第一コリント1622

 

 このように考えると、やはり呪いは全人類に降りかかっていたものといえます。しかし、今やイエスの血潮によりこれがすでに祝福へ移されていることも事実です。

 

ヨシュア将軍により環境を通して誓われた呪いもあります。罪悪に満ちたエリコの町が聖絶され時、彼は言いました。

「この町エリコの再建を企てる者は、主の前に呪われよ。その礎を据える者は長子を失い、その門を建てる者は末の子を失う。」(ヨシュア626

 

 それから約五年後、神さまの御言葉を信じないベテル人ヒエルがエリコ再建した時、この御言葉通りの呪いを受け、彼はその礎を据える時、長子アビラムを失い、門を建てる時、末の子セグブを失っのです(第一列王1634)。