世界に対して十字架
「モーセは、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。」(ヘブル11:26)
「女たちは、死んだ者をよみがえらせていただきました。またほかの人たちは、さらにすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを願わないで拷問を受けました。」(ヘブル11:35)
今、私たちの心構えはどうでしょうか。確かに誰であってもキリストにあって敬虔に生きようと願うならば迫害は避けられません。しかし福音のゆえにむち打たれ、ありもしない悪口雑言をかぶせられて傷つくならば、その天上の報いは喜び踊るほどはなはだ偉大です(マタイ5:11、12、第一ペテロ4:14)。
これをよく知る初代教会の使徒たちは福音のゆえに迫害され、むち打たれた時「御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った(使徒5:41)といいます。
パウロとシラスが光のないカビ臭く湿った獄中で鎖につながれ、打ち傷に病む境遇で讃美ができたことも同じ希望と喜びがあったためです(使徒16:25、ピリピ2:17)。
パウロは払たちの受ける復活の体についてこう述べました。
「天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの栄光と地上のからだの栄光とは異なっており、太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあります。個々の星によって栄光が違います。死者の復活もこれと同じです。」(第一コリント15:40~42)
太陽、月、星、すべて大空にありますが、すべての等級の輝きが異なるように私たち一人ひとりが受ける天上の体も復活の栄光の違いがあります。その日、私たちは皆御使いのようであり、復活の子として神さまの子供であり、大空にいますが(ルカ20:36)、栄光の度合いが違います。ダニエルはこれについて預言しました。
「地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。」(ダニエル12:2、3)
イエスさまはミナのたとえ話で天上の報いの違いを語られ(ルカ19:17、19、24)、天の御国には最も小さい者も偉大な者もいることを教えて下さいました(マタイ5:19)。
イエスさまはご自身が私たちにとって、その足跡に従うべき模範として来られ、元々世界の存在する前に御父と共にいて天国の栄光輝く王なる神さまであられたのに(ヨハネ17:5)、自発的にすべてを捨てていやしくも家畜小屋でお生まれになられて、最後は十字架で血潮にまみれてもっとも醜く死なれたお方です(ピリピ2:6~8)。
「しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。」(詩篇22:6、7)
それゆえ、イエスさまの復活の栄光は最も大きく、地上でも天上でもすべてにまさる名を受けた「王の王、主の主」(黙示録19:16)であられ、天の御国で最も偉大な真にあがめられるべき栄光のお方です。
「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」(黙示録22:12~13)
後の天国では千年王国以上の報いもありますから、本当に賢いものとして世俗に染まらず、次に来る天国と神さまご自身に目を留めて下さい。小さなこの世の有様は直ぐに過ぎ去るからです。
私たちがこの世を真剣に見つめる時、現在世界には八億人の深刻な飢餓、二五〇〇万人の難民、子どもたちが学校にも通えず、ゴミの山で家族のために働く姿や一日三食を食べられない人たちを目にします。本当にかわいそう、できれば助けてあげたいと誰もが思い、時に涙も出ます。私たちがもっと愛に目覚めるために、目を背けることなく現実の世界の悲しみを心に留めて直視することは大切な事です。できるだけ機会を生かして助けてあげるべきです。
そしてもっともっと心を留めて直視してほしい現実の世界がよみです。人が愛されて産まれてきても、イエスさまに出会うことなく死んでよみに落ちたなら本当にかわいそうです。この世のすべての貧困や痛み以上に心引き裂かれる絶望の地よみに落ちないうちに今、イエスさまのことを伝えてあげましょう。それが私たちの今できる最善のことです。
たとえどんなに小さ過ぎると思える働きでも主の御前にはすべてが記録され覚えられている尊い価値ある働きです。愛が冷えるこの世と調子を合わせることなく勇気を失わないで伝え続けましょう。十字架のイエスを伝える働きが一番大切な愛の実践ですから。どんなに物質が豊かな環境に住んでいても霊的貧困があるならば、それは最も恐ろしいこの世のすべての貧困以上の永遠の痛みです。命をかけてでもまずイエスさまに出会うことが一番大事です。
今、キリストのために犠牲を払い、何かをなくすならば後の世ではそれ以上の報いです。この世の矛盾も天国での微調整が必ずあります。あまりこの世に心を深く埋めないで共に告白しましょう。
「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」(ガラテヤ6:14)
ある金持ちで大変けちなクリスチャンがいました。この男の人は一生涯あまり献金も捧げずに、ひたすら自分のために蓄えて多くの純金の延べ板を財産に持っていました。やがて男は自らの昇天の時期が近くなってきたことを自覚して、主に熱く祈り求めました。
「主よ。お願いいたします。私のたった一つの願い事を聞いていただきたいのです。それは、私が一生涯熱心に働いて倹約しながら蓄えてきたこれらの尊い純金の延べ板を私が天国に入る時一緒に持って入ることをどうか特別に許可してください」
するとこれは作り話ですから、主は男に特別許可を与え、天国の記録の書にこのことを記録しました。後に男は齢満ちて召天しました。男は死後に約束通りしっかりと純金の延べ板のぎっしり入った大きな重い袋をかついだまま天国に入りました。天国内で少し歩くとやがて中央に都が見え、その門前まで来て男が中に入ろうとすると門番の大きな天使が質問しました。
「あれ。あなたは天国の都に地上の大きな袋を持って入場するのですか?」
すると男は誇らしげに胸を張って答えました。
「はい。そうです。私は生前に神さまに熱く祈り求めてこのことを特別に許可してもらったのです。もし嘘だと思うなら、ぜひいま調べて見てください」
門番の天使は記録の書を調べてから答えました。
「本当ですね。あなたには特別許可がおりています。その大きな袋を持って都に入りなさい」
こうして男は晴れて天国の広い都の大通りを大きく重い貴重な袋をかついだまま歩き始めると、ペテロが好奇心旺盛に親しく近づいて来て男に質問しました。
「ハレルヤ。あなたは大きな袋をかついでいますね。一体中には何が入っているのですか?ひとつ私にも見せてください」
男は誇らしげにどさっと袋を下ろして、ていねいに袋の□を開き始めました。その瞬間、中身を確認したペテロは腹を抱えて大笑いしながら叫びました。
「あなたはどうして、天国にコンクリートを持って来たのですか!」
天国の都では道路さえすべて純金で造られた道でした。私たちは、ただ十字架を誇りに天国の報いを求めていま地上で捧げて、地上で献身的に奉仕する賢い聖徒になりましょう。