罪を赦す

 

 

第一に、イエス・キリストの血潮は、たちの罪を赦し、義人として神さまの子供になさせる力があります。

 

 

義認・聖化栄化

 

 

 神の法律である律法では「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」(ヘブル922、レビ1711)と定まっています。旧約時代、人々は罪赦されて神さまに受け入れられる礼拝をげようと人の代わりに罪なき小羊や子牛などの動物を祭壇上でほふり、その流された動物の血をもって赦しと清め、神さまとの和解を求めました。

 

その時に捧げることのできる動物の条件は子牛のような高価な動物ほど細かい規定が多く、律法によるとまず皮をはぎ、見える所の外面の傷がないばかりでなく、皮をはいだことにより、初めて現われる内面の傷やシミや病気もないかを充分に吟味した上で、ただ傷のない完全な動物だけを捧げることができ、神さまにその血は受け入れられたのです(レビ記16)。

 

 

 新約時代、ただ一度、人々の罪を身代わりに背負う罪なき神の小羊イエスさまの場合にも同じ規定が成立ちました。神さまに受け入れられる捧げ物は、絶対罪の傷や呪いのシミがあってはなりません。通常のすべての人間には罪があります。

 

しかし、唯一イエスさまのご生涯だけは外なる人前での行動や発言において、全く罪や欠点などが見られない完全なふるまいをされ、さらには皮をはいだ内なる人としても心底聖い霊と心と思いをもたれ、生まれながらにして全く罪の支配も影響もなく、罪の要素を持たない、聖なる驚くべき完全なお方でした。

 

人は心に満ちるものを口から語ります。イエスさまの人としての公生涯、語られた数々の聖いメッセージからその内なる人の聖さは充分に立証出来ますが、その中でも最大級にキリストの内なる人の聖さを立証した出来事とは十字架です。イエスさまは背中にムチ打たれ、十字架の木に釘打たれ、執拗に肉体の皮がはがされて、血潮が流れ出る、壮絶な死の体験をされましたが、そのような死の地と死の陰にみまわれた窮地に立たされ、本当の内なる人が現われる時でさえ、イエスさまの心には自分を迫害し、釘打つ者への呪いや復警心、憎しみのような、内なる隠されたシミも傷も全くなく、むしろそこには完全に聖く純粋な愛から生じる迫害者への深い哀れみと、赦しととりなしの祈りがあったのです。

 

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのが自分でわからないのです。」

(ルカ2334

 

 人は自分が豊かで安全な時、外なる人として義人を装うことも充分に出来ますが、落とされて激しい試練と患難が自らを襲い、絶体絶命の窮地に追い込まれた時、その人の内なる本当の人間性が見えてきます。

あるいは「るつぼは銀のため、炉は金のためにあるように、他人の称賛によって人はためされる。」(箴言2721)とある通り、反対に極端に高く、高められた有頂天になりそうなほどの繁栄の時、内なる本当の人間性が見えてきます。

 

そう考えると群衆から「ホサナ、ホサナ!」と王様のように称賛された時も、犯罪人のように十字架に掛けられた時にも、いつも変わらず愛と聖さを保たれたイエスさまこそ、まさに全世界の救い主として、私たちにおくられた外も内も驚くほど、聖い父なる神に喜んで受け入れられる神の小羊なのです。十字架という祭壇に捧げられた神の小羊イエスの血潮は今も信じるすべての人の罪を聖め、神の子供とする(エペソ21316)あがないの力です。

 

 

 天国を実際に見たメアリ・K・バクスターの証しによると、天国ではたくさんの天使が役割分担しながら忙しく働いており、地上でイエスさまを信じ、救われた人々のために、過去の生活のすべてが記されている本を取りだして、その罪の記録の1ページ、1ページを金のバケツからすくいあげたイエスの血潮で洗っていたといいます。

 

そして天使が洗うと、その本のページは真っ赤になって見えなくなり、すべての記録を洗い終えた時、本のページの色が変わって、生まれた日以来、行なってきたすべての罪の記録は何一つ残らず文字通り洗い清められていたといいます。

 

「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(第一ヨハネ17

 

聖書はイエスの血潮により契約します。

「さあ、来たれ。論じ合おう。たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。」(イザヤ118

 

北国で白い雪がだんだん降り積もって、やがてすべての大地を厚く真っ白におおいかぶせて、まぶしく輝かせるように私たちの心も真っ白くなれます。しかも、顕微鏡で雪の結晶を見ると多種多様な形があり、どれも驚くほど芸術的で美しいバランスのとれた形を持っています。

 

イエスの血潮は、私たちの心をこのような美しい状態まで磨き上げてくださいます。聖なる純白な美しい心です。そして雪は必ず天から降り注がれるように、私たちの聖めも同様に人から生じるのではなく天からの恵みです。美しい雪の結晶とは、天国は美しいという手紙です。その聖い美しさの源は、私たちの過去を赦して義と認め、現在を聖と変化し未来は栄光と変化するまですべての罪を赦し清めるイエスの血潮にあります。